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zoom RSS バナナの叩き売り略史        光田憲雄

<<   作成日時 : 2006/05/03 23:36   >>

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●日本人とバナナの出会い

万延元年(1860)3月 日米修好通商条約批准使節団一行が、日本人として初めてバナナ               を食す(ハワイ/フレンチホテル)

文久二年(1862)   八丈島移民団、小笠原諸島にてバナナを食す

〜明治5年(1872)  …無花果・芭蕉実等時々珍味可無際限也『頭書註解、商家日用新語』
(以上『事物起源辞典』東京堂出版による)

明治35年(1902)6月  台湾バナナが初めて移入される
《バナナは明治二十八年(1895)日清戦争ののち日本が台湾を領有してから移入されたもので下関には明治三十五年(1902)六月に初めて陸揚げされたが、商品化されるまでには数年を要した。》(『下関市史』)

明治36年(1903)   台湾バナナが初めて輸入される
《台湾バナナが輸入されたのは明治三六年で、この年四月大阪の梅谷という人が西京丸で輸入したのが最初といわれている云々(『事物起源辞典』)

明治36年8〜9月の間 基隆の商人始めて台湾バナナを神戸に出荷す。これが当時の人の嗜好に投じ、以後大量輸入するようになる云々 (『編年辞典』東京堂出版)



●叩き売り〈競り売り〉のはじまるまで

明治22年(1889)下関市(当初赤間関市)誕生。(=市町村制創成に伴い全国で31市が誕生…福岡県では福岡市と久留米市が誕生)
明治24年(1891)九州鉄道門司停車場(旧門司駅)、文字ヶ関村へ設置
同 27年(1894)文字町ヶ関村、門司町へ昇格
同 32年(1899)門司市誕生(文字ヶ関村・東郷村・松ヶ江村・柳ヶ浦村の合併)
同 34年(1901)山陽鉄道全線開通・下関駅(当初馬関駅)誕生
同 35年(1902)台湾バナナ始めて「下関」へ移入される
同 36年(1903)    〃       「神戸」 〃
同 38年(1905)    〃        「門司」 〃
同 40年(1907)若山牧水、宮崎へ帰省の途次下関を訪問。「バナナの叩き売り」を見て、下記の歌を詠む
                桃 柑子 芭蕉の実(=バナナ)売る 磯町の
                     露店の油煙 青海にゆく(『若山牧水全集』)

大正 3年(1914)門司駅(現門司港駅)現在地へ新築移転(以前より150b海寄り)

                            
●叩き売りが行われていた頃のこと
◎明治35年(1902)〜明治40年(1907)〜昭和17年(1942)
《バナナは港町下関を代表する果物である。明治末期から山陽の浜(=旧下関駅があった場所)で売られたバナナのたたき売りは、一躍有名になり、下関の名物として、大正・昭和の時代まで引き継がれ露店のにぎわいになくてはならないものとして、市民に深く愛され親しまれ、俳人山頭火(一八八二〜一九四〇)の、
       ぬれてうつくしいバナナをねぎるな
 のとおり、下関の郷愁をそそる風物となった。》(『下関市史』(1978年刊)下関市編)

◆明治35年(1902)〜明治40年(1907) 下関でバナナの叩き売りが始まる

◆明治40年(1907)若山牧水、宮崎へ帰省の途次下関を訪問。「バナナの叩き売り」を見て、下記の歌を詠む
                桃 柑子 芭蕉の実(=バナナ)売る 磯町の
                     露店の油煙 青海にゆく(『若山牧水全集』)

◆昭和2年(1927)12月3日付の『馬関毎日新聞』記事
《県会で議員が「下関山陽の浜露天商人が、無鑑札で営業してゐるものがある」と質問したので、警察部長が下関署に取り調べを命じて署で調べたところ、無鑑札は一人もいないと回答した。駅前の店を出しているバナナ販売露店七軒は、「日没より翌午前二時まで」と云う露店規則を遵守してゐるが、これでは商売は出来ないと、毎日朝より一軒宛て露店を出してゐるが、これは前署長時代より不文律で黙認の形となってゐる。これは当局の手落ちであり今後取締まるが、当局もいたづらに法を盾にとって商売人苛めは出来ない。今後許可を申請すればある程度まで許可すると。》(原文のまま・「馬関毎日新聞」『下関駅百年』斎藤哲夫著・サン・ブレーン刊 掲載)

◆昭和         種田山頭火(1882〜 1940)下関行乞。下記の句を詠む
                     ぬれてうつくしいバナナをねぎるな

◆昭和16年(1941)10月26日、バナナおよび青果市場の廃止命令
《バナナについては、初め台湾青果株式会社が市場の卸売人に指定されたが、のち商工省の同一市場内の荷受機関は単一であることを要するとの方針に従って、これも昭和十三年(1938)十一月三十日から下関中央青果株式会社に移った。
ところが、その後、戦局が進展するにつれ、商品は次第に品薄となり、統制はいよいよ強化され、遂に昭和十六年(1941)十月二十六日、バナナおよび青果市場の廃止命令が出た。》(原文のまま・『下関市史』)

◆昭和17年( 1942)、野菜の配給統制と同時に下関中央青果株式会社は、山口青果株式会社、下関協同荷受け組合とともに、集荷機関に指定され、昭和二十二年(1947)四月一日の野菜の統制撤廃まで、配給業務を実施した。(原文のまま・『下関市史』)

◆ 同年 (1942)関門トンネル開通(下関駅現在地へ新築移転。大里駅を門司駅へ、門司駅を門司港駅へ改称)


●街おこし運動としての「バナナの叩き売りが行われてからのこと
◎昭和50年代(1975〜1984)街おこし運動として「バナナの叩き売りを始まる。
 《門司のまちの活性化を考える「門司港発展期成会」が、「門司の郷土芸能といえるものの一つに、バナナの叩き売りがある。それを復活させよう。」というキャンペーンをあげました。
  当時、門司校区自治会長だった井川忠義氏(故人)が、自分が中学生の頃、見聞きした口上を思い出しながら、作詞・作曲しました。それがテレビで放映され、「バナナの叩き売り発祥の地 門司港」として全国に知られるようになりました。》(『新・門司港駅物語り』(1999年刊)門司区社会科同好会編)

◆昭和53年(1978)「バナナの叩き売り発祥の地」碑を建てる
 《   バナナの叩き売り 発祥由来の記
 昔しを偲べば、大陸、欧州、台湾、国内航路の基幹と、九州鉄道の発着の基地点として大いに発展した、ここ桟橋通は往来の絵巻の一こまとして、アセチレンの灯のにぶい光の下で、黄色くうれたバナナを戸板にならべ、だれとはなしに産まれ伝わる名セリフは大正初期〜昭和十三、四年頃まで、不夜城を呈し、日本国中の旅行者の、目を楽しませた。バナナの叩き売りの風情は門司港のこの地桟橋通附近を発祥の地と由来せし
        昭和五十三年四月 日
           門司港発展期成会
           北九州市観光協会》 (「バナナの叩き売り発祥の地」碑説明板)

これ以降門司区役所を含め、大々的な宣伝活動を始める。但し、区役所のホームページを詳細に読むと、「叩き売り発祥地」のタイトルはあるものの、下記の通り、「“バナナ”は門司を代表する果物になりました」とはあるだけで、叩き売りが門司で始まったとは、どこにも書いてない。(「バナナの叩き売り、門司発祥説」は街おこしの観光事業であり、歴史的事実ではない事を区役所は承知しているからだろうか?)

◆昭和57年(1982)『のせる』(永井啓夫・小澤昭一編/白水社)
 《最近下関でバナナ売りがTV放送(「遠くへ行きたい」)に出てきたが、この発生は下関といわれ、明治三十七、八年頃、バナナは台湾のキールンから神戸に送るとき、関門海峡の潮の流れが強いためと石炭船のため、潮待ちと石炭、水、食糧の補給と船員の休養のため寄港した。その時、船倉で少しいたんだのを(三流品)露店商が安く買い、アセチレン灯の下で口上をつけて売ったのが始めであるといわれている。そのタンカは云々(「香具師の成立と変遷」新井茂雄(1925/大正14年生)著)》

《なお、バナナの叩き売りは明治末年、当時日本の植民地だった台湾からの荷揚げの始まった北九州・門司港に発祥している。…現在、門司公民館館長の井川忠義さん(57)は若いころ、この「バナちゃんの唄」に魅せられて、テキヤの兄さんと一緒に、九州・中国各地のタカマチを廻ったとかで、数少ない伝承者の一人。彼によると云々(「香具師をめぐる都市・大道・民俗世界」朝倉喬司(1943/昭和18年生))》…(確か「自分(井川忠義氏)が中学生の頃、見聞きした口上を思い出しながら、作詞・作曲」したのではなかったか?)

◆平成16年(2004)北九州市門司区役所ホームページ「バナナの叩き売り発祥の地」のタイトル
《明治38年(1905年)門司港で台湾バナナの荷揚げが始まると、昭和初期には “バナナ”は門司を代表する果物になりました。
●バナナが日本に輸入されたのは明治36年頃で、当時、基隆(キールン)[台湾] の商人が神戸に持ち込んだのが始まりです。それが大量輸入されるようになったのは、明治41年以降で、終戦の4、5年前までです。その頃、台湾は日本の領土であったことと、門司港が産地台湾と最も地理的に近い関係もあって、大量荷揚げされ、市場が設けられたのでした。
 このバナナ入荷は、青いままのバナナで、3・40人の仲買人 [室(むろ)を持つ問屋]により競(せ)リ売りが行われました。そして、引き取られた青いバナナは、地下室で蒸されて、黄色のバナナとなって、市場に売り出されたものでした。ところが、輸送中に蒸れた[俗に籠熟(かごうれ)バナナと言う]ものや、加工中に生じた一部不良品等で輸送困難なものは、出来るだけ早く換金する手段として、露天商等の手を経て、口上よろしく客を集め売りさばかれたのが「バナナの叩き売り」の始まりです。
★JR門司港駅を出て右手に行ったところにある旅館「群芳閣」(門司区港町1-7)の玄関横に『バナナの叩き売り発祥の地』の記念碑が建っています。
★「バナナの叩き売り」は、今では、年齢の高い人にはなつかしい響き、若い人には新鮮な響きと受け取られ、人気を呼んでいます。そこで後継者育成のねらいから、「門司港バナナの叩き売り保存会」の協力を得て、門司区まちづくり推進課の主催で、平成9年から『バナちゃん道場』が開かれています。


◎まとめ

・台湾バナナが日本へ初輸入(移入)されたのは、1902年(明治35)に下関港へ陸揚げされたときを嚆矢とする。従って翌1903年(明治36)に神戸港へ輸入されたのは2番目であり、門司は3番目である。
また叩き売りは、遅くも1907年(明治40)には下関で行われていた。従って発祥地は下関である。

(バナナの叩き売り発祥地が門司へなるまでの経緯の復習)
・1975(昭和50)年以降、北九州市門司区で町おこし運動として、「バナナの叩き売り(発祥の地)」復活キャンペーンを始める。すなわち、
1.昭和50年代(1975〜)井川忠義氏が中学生(14、5歳?)頃聞き覚えた記憶をもとに「バナちゃん節」を作詞作曲した。
2.ところが、昭和57年になると同じ井川氏の話が、次のように変化する。
 「若いころ、この「バナちゃんの唄」に魅せられて、テキヤの兄さんと一緒に、九州・中国各地のタカマチを廻ったとかで、数少ない伝承者の一人」と。(井川氏は、昭和57年当時57歳だから、大正15/昭和元年生?)
3.この間、昭和53年に「バナナの叩き売り発祥の地」碑が建立される。

・門司区役所ホームページ要旨
  1.明治36年頃台湾バナナが日本へ初輸入された。
  2.明治38年、バナナが始めて門司港へ入荷
 3.明治41〜昭和15、6年頃、バナナが大量に輸入されるようになった。
  4.その頃(明治41〜昭和15、6頃?)植民地台湾と地理的に近い門司港に、バナナ市場が設けられた。
  5.輸送中に蒸れたもの(籠熟バナナ)や、加工中に生じた一部不良品等で輸送困難なものを、早く換金する手段として、露天商等の手を経て、口上よろしく客を集め売りさばいた。「バナナの叩き売り」の始まりです。


●結論

・門司区役所ホームページには、発祥時期について直接触れられていないだけでなく、門司で行われていたとも書いてない(匂わせてはいる)。
・「バナナの叩き売り発祥の地」碑自体「大正初期〜昭和十三、四年頃まで」とか、「発祥の地と由来せし」とあるように、始まりは駅ができた大正3年を遡る事はなく、しかも人ごとみたいな書き方をしている(なんとも不思議な書き方である)。
・井川氏の言も、中学時代に聞き覚えたものから、後には、実際にタカマチを廻って叩き売りをしていたに変化している。
・門司の人の誰もが、「バナナの叩き売り発祥地は門司ではない」事を知っていながら、 「発祥地である」と主張している(た)のである。だから、肝心な部分がはっきりしない、どうとも取れるような説明をしているのである。だから旧い資料や年配者は、実際に行われているのを目にした下関と云い、実際を知らない若者は町おこし運動が作り出した伝聞に従い門司と云うのである。
                                                    以上

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