大道芸通信 第162号

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  続二八そば

以前(第143号)二八そばのことを書いた際、「二八とは値段であって、蕎麦粉と小麦粉の割合ではない」と結論づけた処、色々反論を貰った。その中で一番多かったのは、
「そばの値段が十六文(二×八)だったのは、藩政時代後期の七八十年だけじゃないか。それ以前、十六文より安かった頃の説明をどうする」というものであった。
簡単な話で、左図のように「二六そば(十二文)」と云っていた。また、それ以前のことについては順次検証説明する。

掲載図は『絵本江戸土産』(西村重長画 京都菊屋安兵衞・宝暦三年(一七五三)初版)のうち「両国橋の納涼」場面挿絵の一枚である。これの冒頭に「きりや」という店があり、店先に置かれた行灯の向かって右側に「うんどん(=うどん)」左側に「二六新そば」と書かれてある。また「きりや」の前に店を構える葭簀張りの店の掛け行灯にも、同じく右に「そば」左に「二六にうめん」と書かれてある。何れも一杯十二文であることをあらわしている。
 そもそも「二八そば」が蕎麦粉と小麦粉の配合割合であるとの説が盛んに云われだしたのは、昭和(1926~1989)それも後半以降の話である。それ以前は云わずとも、誰でも値段のことだと思っていた。
加太こうじ(1918~1998)は元々紙芝居作家であり、永松武雄から『黄金バット』を引き継いだことでも知られる。紙芝居衰退後は大衆芸能や庶民文化の紹介に務めたが、『私の江戸・東京学』(筑摩書房/1987/3刊)と云う著書に「そば」の話を載せている。
《江戸時代初期までは、蕎麦といえば蕎麦粉を熱湯でこねて汁をつけて食べる物だった。そのうちに細く切ってゆでて食べる方式が、蕎麦切りといって流行した。そして、江戸時代中期からは、蕎麦というと蕎麦切りのことになり、団子状にして食べる蕎麦は蕎麦がきというようになった。二八蕎麦というのは、屋台をかついで路上で食べさせる蕎麦屋の夜鷹蕎麦が、行灯にそう書いたから起こった名称である。はじめ、一杯十二文のときは二六蕎麦と書き、幕末に黒船来航、軍備拡張で物価があがって値上がりして一杯十六文になったので二八蕎麦になった。二六、二八共に値段のことで、蕎麦粉とつなぎの小麦粉の割合のことではない。
 ついでに、うどんのことを書いておくと、うどんは中国からの移入で、江戸時代初期には菓子屋で売っていた。団子状にして蜜その他の甘味をつけて食べたのである。東海道の池鯉 の近くの芋川というところで、菓子とされていたうどんを、当今流行の蕎麦切りのようにして食べさせようとした茶店があった。それが当たって、うどんは平べったく細く切って汁のなかへ入れて食べる物になった。
芋川うどんといったが、それが訛って、ひもかわうどんになった。きしめんも同じである。食物を作って売る店の多くは、もったいぶってえらそうに見せかける。
 菓子屋の鈴木播磨や岡埜栄泉という屋号などはそれだが、芋川をひもかわにしたり、キ子すなわち碁石をかたどった菓子のキ子めんを、紀州の殿様が作ったなどといって売る。きしめんはキ子めんであって紀州めんではないが、商品のレッテルに紀州めんとしてあるので、今ではキ子めんを知らない人が多い。》
この中におおよその流れが記してあるので、検証する。
「蕎麦切り」のはじまりの時期について、事物起源辞典の『本朝世事談綺』(菊岡沾凉著享保十九年〈1734〉刊)は、次のように説明している。
「蕎麦切 食物について詳しく書かれた書でも、二百年以前のものには「蕎麦切」の事は全くふれられていないから蕎麦切は近世になって始まったものである。
 唐土の河漏津と云う湊では、名物としてどの茶店でもこれを作っている。だから河漏と呼んでいるが、日本の蕎麦切の事である。蕎麦切は江戸が一番で他国のは及ばない」

 ここで云う近世とは、右書が書かれた享保十九年頃から見てと云う意味だから、蕎麦
切は早くとも一五三四年以降、実際には江戸に幕府が開かれてから六十年余を経た、寛文四年(1664)頃始まった。

『嬉遊笑覧』(文政十三年(1830)刊)は、次のように云う。《…塩尻(州)そば切は甲州より始まる。初め天目山へ参詣多かりし時、処の民参詣の諸人に食を売りけるに、米麦少なかりし故、そばを練りて旅籠とせし。
 その後うどんを学びて、今の蕎麦切とは成し。と信州の人語りし、と有りかかれば、近きことと見ゆ。その上は蕎麦掻のみしたるにや。……
『昔々物語』(新見正朝享保年間(1716~1736)著)に寛文辰年(四年甲辰)けんとん蕎麦切といふもの出来て、下々買ひ喰ふ。貴人には喰ふものなし。是も近年歴々の衆も喰ふ。結構なる座敷へ上るとて、大名けんとんと云ふて拵へ出す。
『軽口男といふ草子』(=『当
世軽口男』貞享元年/1684刊)浅草旅籠町の処、弓手も馬手も、そば切屋一杯六文掛け値なし。蒸蕎麦切の根本と声々に呼ぶ。『鹿子はなし』(元禄三年/1690刊) に諏訪町あたりにて蒸籠蒸蕎麦切一膳七文と呼びける。其の絵を見るに、棚の上に大平の椀に盛りて並べたり。軽口男は貞享中の草子、また是は元禄三年の草子にて、その間ほど近けれど価異なり。また寛文八年頃の物と云ふ流行物の短歌には「八文もりのけんとんや」とあれば、前後あはず。さまざまにてありしにや。
『江戸鹿子』に、見頓屋堺町市川屋、中橋大か町桐屋(=『絵本江戸土産』挿絵
と同一の店か?)、同提重堀江町若菜屋、本町新橋出雲町(『世事談』には、瀬戸物町信濃屋といふ者、初めて是を巧む。其の後所々に流行りて堺町市川や堀江町若菜や云々、中にも鈴木町丹波屋与作と云ふ者、其の名高し)》
 また『偽紫源氏』の作者として知られる柳亭種彦も、自著『還魂紙料』(文政九年/1826)で、「慳貪」について次のように説明し。『昔々物語』の説を紹介。
同じく寛文四年を慳貪蕎麦
の初めであるとしている。
《因果経といふ〔和讃〕に云ふ。「人のものをば欲しがるを、けん(慳)といふなり。人に物、を(惜)しがるものを、どん(貪)といふ。けんどんぐちとは、ここぞかし」ここに説くところ、大むね法華経に見えたる慳貪の意に当たれりとぞ。…慳貪は吝ことなり。されば蕎麦切にもあれ、飯にもあれ、盛切で出し、かはりをすすめざるをけんどんといふなり。(略)〔むかしむかし物語〕に曰、「寛文辰年(割註)四年(1664)なり。けんどん蕎麦切といふ物出来て下々買喰。貴人には喰者なし云々」是けんどんの初めなるべし》

また『本朝世事談綺』も、次のように記す。
「慳貪 江戸瀬戸物町信濃屋がはじめた。その後あちこちに流行ったが、鈴木町丹波屋与作と云うものが、慳貪(=饂
飩・蕎麦・酒などを一杯ずつ盛切りで売る事)の代名詞のように知られている。
 この店を慳貪(=ものを惜しみ、けちで欲張り)と呼ぶのは、毒味役や給仕役を省き、碌に挨拶もしないからである。
しかし一方では、無駄を省き倹約に叶うから「倹飩」と 書いたりする。この説は素晴らしい」
因みに、「慳貪蕎麦(饂飩)」を現在の辞書でひくと、
「大きな平椀に一杯ずつ盛って売る蕎麦(饂飩)」とあり、享保頃の意味に近い。

ここで紹介したものも含め、蕎麦に関する資料を探してみたが、「二八そば」の由来は何れも値段であり、配合割合に触れたものは一つもなかった。百歩柚って、仮に配合割合だとしたら、彼等自身「蕎麦粉八、小麦粉二」と説明しているように、多いほうを先にして「八二蕎麦」と云うのではなかろうか。

蕎麦は元々熱湯でこねて食べる蕎麦掻が普通の食べ方であった。これが饂飩の影響を受けて、今見るような蕎麦切となった(=加太こうじ説は逆に蕎麦の方が早いとするが、後日検証する)。寛文四年頃のことである。
 当初は一杯ずつ盛り切りになっている蕎麦切を「慳貪蕎麦」と云い吝嗇くさい物の代名詞のように云った。そのため、下々の食べ物とされ、高貴の人は食さなかった。
 ところが享保頃になると、「大名けんどん」などと呼ばれる贅沢なものも出回るようになり、貴人も座敷で食すようになった。
二八そばと云う言葉が現れたのもこの頃である。『嬉遊笑覧』は、『衣食住記』を引用として次のように記す。
《享保の頃饂飩蕎麦切菓子屋へ誂へ、船切りにして取り寄せたり。其後、麹町へうたんや(瓢箪屋)などと云ふ。慳貪屋出来、蕎麦切ゆでて、紅殻塗の桶に入れ、汁を徳利に入れて添来たる。其後享保(1716~1736)半頃、神田辺にて「二八即座けんとん」と云ふ看板を出す。(かかれば、そばをうどん桶に入れたり。二八そばと云ふこと此時始めなるべし) 》
 なお『衣食住記』とは、『続燕石十種』第一巻所収の「反故染」(越知為久著) のことであり、『嬉遊笑覧』が書写した後は次のように続く。
《うんどん蕎麦切、好みに従ひ即座に出す。殊の外流行。其の後、膳部共に箱に入れて、先々へ遣事に成り、一八、二八、三八と追々に知恵を振るふ。元文(1736~1741)の頃より夜鷹蕎麦切、其の後手打蕎麦切、大平盛り、宝暦(1751~1764)の頃風鈴蕎麦切品々出る》
つまり「二八そば」が現れた享保頃は、「慳貪」から「けちくさい」を意味する部分が消え、現在とほぼ同じ「一杯盛りの蕎麦」と云う意味だけが残った。
 当初「二八即座けんとん」と云われたように、「注文したら即座に出てくる、一杯(=けんとん)十六文(=二八)の蕎麦」と三拍子揃っている事が売りであった。
 昨今の立ち食い蕎麦同様、待たずに食べられるスピードと、店へ入る前に値段がわか
る明快さが、江戸庶民の心を掴んだのである。だから、二八以外にも、一八(=八文)や三八(=二十四文)等、明朗会計を売りにした蕎麦が生まれ流行ったのである。

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ヘブンアーティストコンテスト(二次審査)
当会伝承会々員 舞丸氏が見事合格


九月三日、四日の両日、都庁前広場で行われた「第七回ヘブンアーティストコンテスト二次審査」において、当伝承会々員の舞丸氏が、見事合格した。ユニークな発想と体を張っての演技が、審査員の心を掴んだものと思える。
 洋物大道芸全盛の中にあって、若い彼女が和物口上芸で合格してくれたことは、後に続く者にとっても非常に励みとなる。これを第一歩として、益々精進して貰いたい。

大道芸講習会 今後の予定

●第一六九回目 十一月十五日(木)

●第一七〇回目 十二月二十日(木)

ONLY・1、No・1を目指す   伝承会  

●日時 随時

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
会費・一回五百円

編集雑記
世間では神無月だが、出雲では十月を神在月(かみありづき)と云う。神様の全国大会が行われるからである。主催は大黒様、別名大国主命である。 この神様はまた、蕎麦を広めた神様でもある。だから、地元出雲は勿論、有名な蕎麦処には必ずといっていい程、大黒様を祀ったお宮がある。それが信州の諏訪大社であり、武蔵の大國魂神社である。
 出雲や諏訪に比べて大國魂は少々劣るが、名前が大國(主)である上、江戸の名物「二八そば」の元祖、深大寺蕎麦を持って来た功績は大きい。
片目つぶって掲げる事にした。

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この記事へのコメント

百楽天
2012年07月16日 01:27
二八そばについて十六文の価格説をとられているようですが、通説では享保のころに「二八蕎麦切」がはじまったということになっていましたが、元禄末の草子にすでに「二八」の看板が描かれていたと書かれた史料もあります。

元禄末といえば、そばをつくるときにうどん粉を使いだした時代に重なります。

貞享の頃の浅草の蒸しそばは、六文書いたものや七文と書いたものもあります。この蒸しそばにはうどん粉は使われていません。

さらに「時そばの」が参考にした上方の「刻うどん」の大元の噺は、享保の時代に出たもので、その噺では、そばは六文、時は夜四つでした。

史料をつきあわせてみると、享保の頃のそばの値段は六文から八文となります。

「二八蕎麦切」がでたのが享保とすれば、辻褄が合いません。

1700年代中頃でさえ、そば粉1に対してうどん粉4の割合のそばがふつうでした。これを書いた「蕎麦全書」は出版されず昭和になるまで日の目をみませんでした。


蕎麦全書には「二八そば」だけではなく、「戸隠二六そば」というのもあります。蕎麦全書の著者・日新舎友蕎子は、「戸隠二六そば」を「二八蕎麦切」と同じように解釈したようですが、1700年代中頃までは「二八そば」は頻繁にみられても、「二六そば」を書いたものはありません。

蕎麦全書の脱稿は1700年代の中頃で、同じ頃に「手打蕎麦切」もでているのです。これは「仮名手本忠臣蔵」の十段にある詞の影響と思われますが、「蕎麦全書」には載っていません。

2012年07月16日 01:31
文字数制限にひっかかってしまったので、続きです。

こうしてみると、「二六そば」や「手打蕎麦切」はほぼ同じ時代に現れたことがわかります。

そしてすぐに「絵本江戸土産」が出た。このなかの「両国橋の納涼」にあるのが「二六新そば」と「二六にうめん」であるならば、「戸隠二六そば」と同じく、少し高めの値段を示しながら上等であることを示唆します。

従って、もともとの「二八蕎麦切」はそば粉とうどん粉の配合比率から。1750年頃現れた「二六そば」はそれとは別で十二文という高めの値段を示しながら、上等であることを売り物にした、と考えるのが妥当だと思います。

なお、「手打蕎麦切」が「仮名手本忠臣蔵」から出た名目であるという説は平成12年に私が発表した者ですが、その後の調査で蜀山寺も同じことを書いていたことがわかりました。

非常に多くの史料をあたっていらっしゃるのには驚きました。
蕎麦関係のサイトでもこちらほど詳しく調査されたものはないと思います。
2012年07月16日 10:10
 いきなりの書き込みで誤字・脱字も数々あり、「蜀山人」と書くべきところが「蜀山寺」などお恥ずかしい限りです。
 資料も見ずに書いたので出典もあげていませんでした。失礼しました。
。。。。。。。。。。。
朝川善庵(1781-1849年)の 『善庵隨筆』 には、次のようにあります。
「還魂紙料ニ、寬文八年ノ頃、江戸ノ流行物ヲ集メシ短歌ヲ載テ、八文もりのけんどんや、
又かる口男に〈貞享元年頃印本〉一杯六文かけねなし、むしそば切、鹿の子ばなしに、〈元祿三年印本〉
蒸籠むしそば切一膳七文トアルニテモ、當時蕎麥一膳ノ價十六文ニアラザルヲ知ルベシ、〉
カク二八ノ調合ニテハ、温飩ニ近ク、蕎麥タル詮ナケレバトテ、新ニ蒸蕎麥トイフモノヲ工夫ス」 
。。。。。。。。。。。
弘化五年(1848年)刊の  『近世事物考』(松祐之著)「蕎麦屋の条」 には、こうです。
「元禄の末の艸子に二八の看板初めて見えたれば・・・」

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