大道芸通信 第192号

画像画像
続々 二八蕎麦
江戸を語る場合この人を外して語る訳には行かない、そう云われるほど江戸の考証をした人が三田村鳶魚である。二八蕎麦についても、値段か配合割合かについて各種史料を並べて考察し、最後に自分の出した結論を述べている。

鳶魚によると、二八蕎麦論論争の始まりは幕末からのようである。と云うより、その頃から配合説を唱える人が出始めたと云う。何故そんなことを言い出したかは不明だが、如何に根拠のない説であるか、「二八蕎麦」(=鳶魚論題)で、配合説を唱えはじめた最初期の文献『俗事百工起源』と『五月雨草子』を原文のまま紹介している。
《二八といへるは、そばの事にて、二八は九々の数、二八十六と云へることと、売人も買ふ人も思へども、左にあら
ず。二八は蕎麦の品柄を云ひしものなり。二八とは、蕎粉八合にて、つなぎに饂飩粉二合入りしを顕はして書しものなりと、松岡子(=松岡時敏(1810-1877)か?.)、予(=著者宮川政運)に語りぬ。二六も同じ》(原文のまま。写本『俗事百工起源』(慶応元年(1865)自序/宮川政運著)
続く『五月雨草子』(慶応四年(1868)喜多村香城著)も、自己絶対話を載せる。こちらも原文のまま紹介する。
《世上に二八そばとて、価十六文のことと解するは誤りにて、二八は蕎麦粉八分、麦粉二分を以て調和し、多く麺を雑へざるを表せしなり。後に諸物価値下げの命ありし時、其の価を十五文に下し、店頭に三五と標したるは、誤りの更に誤るなり》
右の二説は図らずも、慶応年間(1865~1868)までは、値段説しかなかった事実を反映している。だから自説を述べる前に、「世間の人(売買人)や世間(世上)が皆間違っている」と云わなければならなかったのである。
 それでも配合説が正しい根拠を示すならまだいい。値段説は間違いだといいながら、配合説が正しいと述べる根拠が、「松岡子が予に語りぬ」(『俗事百工起源』)では余りに情けない。
また、「二八は蕎麦粉八分、麦粉二分を以て調和し、多く麺を雑へざるを表せしなり」(『五月雨草子』) と云うのもよくわからない。
 生蕎麦という言葉はすでに使われている(上図)し、正直蕎麦(=十割蕎麦)と云う言葉も使われていた。共に混じりけのない蕎麦粉十割の蕎麦という意味である。
 それなのに、二割も麦粉(=何故二が小麦で八が蕎麦か?素直に読めば「蕎麦粉の方が二」である)が混じっている蕎麦の何処が調和しているというのだろうか。
更に不可解なのは、値段を十五文に下げたとき、三五と書いたのは、誤りの上に誤りを重ねたものだとは、よくぞ云ったものである。
二八、二六、三五、すべて掛け算の九九であり、値段(十六文、十二文、十五文)を表していることは、当時の人なら誰でも知っていた。『五月雨草子』の著者はどれほど偉い人か知らないが、自分以外の世間がすべて間違えてると云いきるのだから大したものなのだろう。
 何れにしても、右の二文献が述べる配合説は、言葉は悪いが言いがかりである。
 二八蕎麦の初めについては『衣食住記』(『反故染』)に記す。(=本紙162号で紹介済みのため省略)
 また同説の補強として、鳶魚は「二八蕎麦」で『享保世説』の十三年(1728)に載せる、落首を紹介している。
   仕出したは
     即座麦めし二八そば
   みその賃づき
     茶のほうし売
 同時に、
《二八は蕎麦にも饂飩にも称せられたのが知れる。誰か、もし、蕎麦は原料配合の率だともいえようが、饂飩は何の比率から同じ称呼にしたであろうか、と設問した場合に、差支ない返答があるだろうか。また、近藤清春の『道化百人一首』は、元文(1736~1741)度の刊行と推定されているが、その中に、「一八ぶっかけ」の看板がある。これも原料の比率で解釈しうるか否か》
 と、疑問を呈している。また『五月雨草子』が、自説を主張せんが為に妄りに誤りだと言ってしまうのは、その意を得ない。と批判している。
 何れにしても鳶魚は、
《二八蕎麦は代価からの呼称と解得したい。ただし(配合比率説に)たしかな証拠の出るまで》と、含みを持たせながらも値段説を採用する。

ここで江戸・東京蕎麦の歴史を見てみよう。「藪」「更級」「砂場」を「暖簾三家」と云うと何かに書いてあった。中でも最古参は「砂場」で、大阪発祥とされる。「藪」は、この「砂場」から暖簾分けしたと云う説もあるがよくわからない。「更級」は全くの別系統で、信州蕎麦の流れだと云う。
「砂場」は今の大阪・西区新町にあった「津国屋」「和泉屋」と云う二軒の蕎麦屋が発祥とされる。これが「砂場」と呼ばれるようになったのは、店のあった場所が、大坂城築城のための材料(=砂や砂利)置場だったため、通称「砂場」と呼ばれていたことによる。
 その様な場合、傍にある店名なども正式な名前を云わずに場所の名前で代用することは、普通に行われる。「津国屋」「和泉屋」についても、同様に「砂場」と呼ばれるようになった。『摂津名所図会』(寛政十年(1799)刊)大坂部四下の巻・新町傾城郭は、「砂場いづみや」を載せる。「す奈場」と染め抜かれた暖簾をかける店構えは立派なものである。
 創業については、大坂城築城工事が開始された翌天正十二年(1584)とする(津国屋)。が、少々疑問が残るようだ。
江戸への進出時期についても不明だが、『蕎麦全書』(寛延四年(1751)刊)巻之下「江戸中蕎麦切屋名寄附名目」は、「薬研堀大和屋大坂砂場そば」を載せる。
砂場と云えば、江戸(~東京)にも似たような字を書く「砂利場」と云う場所があった。右は広重の『名所江戸百景』中の「高田姿見のはし俤の橋砂利場」である。早稲田の近く、今の氷川神社から南蔵院へかけての一帯である。(随筆家の内田百閒も一時住んでいたことがあり、砂利場の大将と呼ばれていた)
 また江戸城築城の際に砂利を採ったとされる浅草田町一丁目(=台東区浅草五丁目)付近も、「砂利場」と呼ばれた。
【「藪蕎麦」の「藪」は、江戸・雑司ヶ谷鬼子母神の近くの薮の中にあった百姓家の「爺が蕎麦」である。当初は「薮の内」とも云われたようだが、名物となるに従い「藪蕎麦」を名乗る店が方々に現れた。
 本郷団子坂にあった「蔦屋」も竹藪の中にあったが、そこの連雀町店を引き継いだのが今の神田・薮蕎麦の堀田七兵衛初代である。
 それ以前は蔵前で「中砂」という店をやっていた。北池袋にある西念寺の墓石には「大坂屋七兵衛」とあって元々は砂場系出身だったという。
 これらの話は、かつて、並木・薮蕎麦(初代七兵衛の三男が初代)の次男で池の端・薮蕎麦の堀田主人が対談などで話していたので確かだ。】
右の話はネット検索で一番面白く説得力もあったので紹介した。「薮」が「砂場」から暖簾分けした説も、この話が発祥ではないかと思うが、何れにしても裏を取った訳ではない。
 また「暖簾三家」の真似をした訳ではあるまいが、神田、並木、池之端の薮蕎麦の店を「薮三家」と云うそうである。
最後にもうひとつ、老舗の暖簾を誇っているのは「更科」である。元は、信州更級郡出身の織物行商人清右衛門が、江戸での逗留先としていた麻布・保科家に勧められ、麻布永坂町ではじめたとされる。寛政二年(1790)、開店に際し清右衛門は名を太兵衛と改め、「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げた。「更科」は、蕎麦の産地「信州更級」の「更」と「保科家」の「科」を組み合わせたものと云う。
「薬研堀七色唐辛子」の初代辛子屋徳右衛門が、将軍徳川の「徳」を下に置いて、「山徳」を商標にすることを認め
たり、殿様が行商人に名前を与えたり、徳川幕府は今より遙かに民主的であったようである。
 それは兎も角、「更科」が暖簾分けをするようになったのは明治十年代以降と云う。従って、暖簾分けがはじまり、「更科」を冠した蕎麦屋が増え始めるのはそれ以降のこととされる。

不許蕎麦入境内
 寺院の山門脇に「不許葷酒入山門」と彫られた石碑が建てられてあることなら珍しくはない。しかし「葷酒」ではなく「蕎麦」と彫られてあるのは外にはない。かつては浅草浅草寺近く幸龍寺隣にあった浄土宗寺院・称往院。関東大震災後は、幸龍寺と共に世田谷区烏山へ引っ越し現在に至っている。
 この称往院の塔頭に、かつて「道光庵」と云うのがあり、代々の庵主が皆蕎麦好きで知られていた。中でも天明年間(1781~89)頃の庵主は、信州出身と云われ、当代随一の蕎麦打ち達人であったと云う。
《浅草称往院寺中道光庵、生得この庵主蕎麦切を常に好むが故に、自然とその功を得たり。当庵僧家の事なれば尤魚類を忌む。絞り汁いたって辛し。是を矩模(=決まり)とす。粉潔白にして甚だ好味也。茶店にあらねばみだりに人を招くにあらず、好事の人たって所望あれば即時に調ふる也。誠に好める道なれば也》(『続江戸砂子』)
 現在のグルメブームよろしく、評判が評判を呼び、ドット客が押し寄せるようになり、何時しか蕎麦打ちが本職のようになってしまった。
 しかし道光庵は元来坊主の住む塔頭である。「これでは堪らん、修行の妨げになる」と、称往院は道光庵の蕎麦打ちを禁止した。その際建てられた(天明六年=1786)のが、今も残る「不許蕎麦入境内」の石柱である。
道光庵は消えても、蕎麦屋の屋号に「○○庵」の文字は今でも残る。道光庵の繁盛にあやかってつけられたという。

大道芸講習会 今後の予定

●第一九三回目 十月二十一日(水)

●第一九四回目 十一月十九日(木)

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
会費・一回五百円

ONLY・1、No・1を目指す 伝承会  
●日時 (HP掲示板で通知)

時間・午後六時ー九時
場所・寺町通り区民集会所
会費・一回五百円

編集雑記
『江戸の大道芸人』を出してから一ヶ月。ぼつぼつ本屋に並び始めたようである。税込価格が1890円と少々高めだが、出版社としてはこれでもギリギリだという。慥かにベストセラーにはなりえない。
 意見感想などは、まだ知人からしか届かないが、概ね好意的であるのはご祝儀だろう。しかし、これからは厳しい本音の意見が欲しいと思う。思うと云うより願望である。宜敷お願いします。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 4

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
面白い

この記事へのコメント

2009年09月20日 10:13
「大道芸通信 第192号」について
二八蕎麦(そば)が、配合割合ではない決定的な証拠があるじゃないか!!

 今号に掲載の挿絵は有名な浮世絵(俗称 三代豊国画)ですが、看板の字を読むと、「二八」と書かれた下の二行は、「きそば(生蕎麦)」と「うんどん(饂飩=うどん)」と書かれてある。
 つまり、値段は16文=2×8(にはち)の「生蕎麦(=蕎麦粉100%のそば)」と「饂飩」と表示してある。
 変体仮名混じりでで「起そ春(きそば)」と書いてあるから、これまで誰も気づかなかったが、混じりけなしの混ぜ蕎麦はありえないだろう。
百楽天
2012年07月16日 23:53
 三代豊国の時代であれば、十六文ですが、「二八」は六文くらいの時代からあります。ですから、時代によって意味が変ったとみるのが妥当だと思います。

 なお、「二六」は1700年代の中頃、「手打蕎麦切」と同じ頃に現れたもので、これは価格によりますが、「駄そばではない」ということを強調したもので、「二六新そば」などはいい例です。

この記事へのトラックバック