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zoom RSS 大道芸通信 第214号

<<   作成日時 : 2010/09/04 11:03   >>

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枇杷葉湯は琵琶の若葉に肉桂(にっけい)などの香辛料を混ぜて煎(せん)じたものである。暑気払いに効果があるとして、端午(五月)の節句から八月十五日まで売り歩いた。
 現在は衣替えをする六月から八月までが夏だが、旧暦では四〜六月が夏、七〜九月は秋である。年によって異なるが、今とは平均二ヶ月近くずれがある。
 だから、まだ春の名残が残る四月は避け、五月から売り始めたのである。同様に残暑の残る月見までは売り歩いたのである。(現在は九月に行われる月見も八月十五日の行事であった。隅田川の花火も五月二十八日から八月一杯迄スポンサーがつけば毎日) 本店(=本家)は京都の烏丸(からすま)通りにはあったが、

  本家より 出見世(でみせ)の多イ 烏丸(からすまる)(柳樽)

 の川柳が残るように、江戸の方が多かった。それに伴い言い立ても「からすま」ではなく、文字通りに「からすまる」と呼んでいた。代表的な江戸店として、馬喰町(ばくろちょう)に山口屋又三郎店があった。
 人通りの多い場所に屋台を置き、煎じた琵琶葉湯を通行人へ見本として、無料で飲ませながら効能を述べた。

 からーすまる 本家エー  びわようとおー ○○ □□ 暑気払い  エ 本家エー 琵琶葉湯オー

    」
と呼び立てながら町々を流し歩き、時には屋台を据え置いて道行く人に試飲させたりした。それだけに目立ったらしく、川柳にも沢山詠われている。
〇真昼間(まつぴるま) 目斗(めばか)り光る
  からす丸 (夏柳27オ)
〇真黒に なってあきのふ  烏丸(からすまる) (樽五七16オ) 〇枇杷葉湯や声からす丸    (五万才三15オ)
〇売(うり)ながら 枇杷葉湯ハ 立ちくらミ(ケイ廿13ウ
〇烏丸 殿で寄手の 諸騎(しよき)払ひ(樽百五九13オ)

 また相手構わず誰にでも振る舞ったから、尻軽女の代名詞にもなった。
〇枇杷葉湯 戸かくし様の  後一門(桜鯛1ウ)
○しておいて 烏丸とハ にくひ口チ(樽八一31ウ
○撥(ばち)よりも 枇杷葉湯で 名をひろめ(樽百三2ウ)

『譚海』(依田学海著/明治十七・十八年(1885・86)刊)は、次のように記す。
《天明(1781〜89)の頃より京都烏丸琵琶葉湯とて、数人大路を売りて往来す。絶へず箱の中に薬をしつらへ途中にて往来の人に飲ましむ》
 上図は一年十二ヶ月の風俗を絵と文字で書き表した山東京伝の『四時交加(しじのゆきかい)』六月が載せる「琵琶葉湯」(右側)と「わいわい天王」(左側)である。
《その売立文句(うりたてもんく)は、「本家烏丸枇杷葉湯引第一暑気払ひとらん、毎月五月節句より御披露仕(ひろうつかまつ)り升(ます)、煎薬は代物に及ばず、平ら一面に御振舞(おふるまい)申し升、半包(はんづつみ)は廿四文、一包は四十八銅、御用なら御求めなさい、烏丸枇杷葉湯でござい。」(『此花』東京版・十二枝)街頭で振舞ったものは、煎じ薬の熱いものであった。(『一杯綺言』)『中陵漫筆』九巻に処方があります。》
と云うのや、点景に琵琶葉湯を使った次のような話が、ネット上にあった。
《お葉は東伍を追つて出て来てゐた。惣兵衛の母親は、ほかの移住者の中に入つて河岸道を急いで行く。秋晴れと云つてよい空だつたが、残暑はきびしく、橋の袂には琵琶葉湯を商つてゐるのも見えれば、麦湯の店も並んでゐる。そんな大道の店に両刀を差した客が家族連れで平気で入つてゐるのも、瓦解がなければ見られない景色だつたと言はうか? 時ならぬ儲けに、日に照りつけられ汗をかきながら景気のいいのは商人だけであつた。(「灰燼」大仏次郎 一九三八年八月〜三九年五月、『現代』連載)View》
「琵琶葉湯」と「わいわい天王」は、案外近しい関係であったのかも知れない。『江戸名祖図会』「金六町 しがらき茶店」の前でも両者がセットみたいにいる。
 
大締一代記 (三)    (原作)藤本 甲南 (著作)光田 憲雄

 仕入れから帰ると父は二階で休みましたので、店番も私の仕事になりました。売り上
げの半分は現金ですが、残り半分は「付(つ)け(=掛け売り)」でした。信楽焼の狸が持っているような「通い帳」に、購入した商品と値段を書き、二十五日締めとなっていました。 翌(あく)る二十六日からは各得意先を回って「通い帳(=掛け売り帳)」を集めて廻りました。その月の売り上げの集計をするためです。集計が終わると再びお客さんの元へ行き、売掛金を集金しながら同時に「通い帳」を返して廻りました。
 このようにして一年経ちましたが、復学の予定はなかなか立ちませんでした。幸いその年から小学校の教室を利用して、夕方六時から九時頃まで青年学校が始まりました。私の一人よがりかも知れませんが、支那事変(=日中戦争)も拡大しましたので、夜時間のあいている若者に、改めて軍事教練を主体とした勉強を始めたのだろうと思います。
 そのためか体育に重点が置かれ、一級から三級までの資格を与える制度が出来ました。一俵四十キロcもある米俵を担いで五十bを何秒で走るか。懸垂(けんすい)は何回、幅跳(はばとび)は何bか、腕立て伏せや二千bを走る時間(タイム)等であった。反面、学科の勉強は殆どありませんでした。体育が苦手の私は軍隊ラッパの授業を受けました。これは私にとって非常に楽し
い授業でした。
 昭和十五年に入ると、戦争は一段と激しさを増したようです。新聞報道は「勝利勝利」の報道ばかりでしたが、翌年開催予定であった東京オリンピックは中止が決まりました。それでも映画館では、昭和十一年に開催されたベルリンオリンピックの記録映画が「民族の祭典」の題名で、上映され続けました。二百b平泳ぎで優勝した前畑秀子選手の実況中継場面、「前畑ガンバレ」のシーンは繰り返し上映され、日本中を熱狂させました。そのためか、今でも私の脳裏には鮮明に焼きついております。
 この年は神武天皇が即位して二千六百年目に当たるとされ、紀元二千六百年祭が大々的に行われました。祝典に先立ち奉祝歌が一般公募され、増田好生の詩が一等に選ばれました。作曲は音楽教諭の森義八郎でした。彼は後年作曲家として活躍しますが、酒癖が悪く、
「奉祝歌『紀元二千六百年』の曲は、大塚の花街で遊女を抱いた時の腰のリズムを使って作曲した」と放言したりして物議を醸したりしました。しかし、当時毎日のようにラジオから流れ、大流行しました。

  金鵄(きんし)輝く日本の  榮(はえ)ある光 身にうけて
   いまこそ祝へこの朝(あした)  紀元は二千六百年
    あゝ 一億の胸はなる

 反面、すぐ次のような替歌が作られ、本歌以上に流行しました。「金鵄」「光」「朝日」は全て煙草(たばこ)の名前です。

  金鵄あがって十五銭  栄えある光 三十銭
   朝日は昇って四十五銭  紀元は二千六百年
    あゝ 一億の金は減る

 また日本、ドイツ、イタリアの三国で「三国軍事同盟」が、締結されたのもこの年でした。これをきっかけに政府は「徴用令」公布しました。小学校を卒業した男子の内、学生や会社員を以外の者には徴用令の書類を送るので、受け取った者は出頭することとありました。
 その頃の私は復学もならず、家事手伝いを続けておりましたから徴用の対象者となるはずでした。幸い父の病状も幾分快復しておりましたし、いずれ徴用されるぐらいなら志願した方がいいだろうという話になりました。この年の秋、海軍に志願書を提出したところ、試験は翌十六年一月末頃と云われました。
 追いかけるように徴用令が届きましたが、面接官に海軍へ志願中の旨を伝えると、入団できなかった場合に改めて徴用令を出すと云われ、すぐに帰されました。余りに簡単でしたので少々拍子抜けしましたが、何が何でも海軍へ入団しようと思いました。
 海軍へ入団するには学科試験と身体検査に合格しなければなりません。学科試験は国語と算数が、小学校卒業程度の学力試験であり、合格すると明くる日に身体検査が行われました。
 海軍の中には兵科が沢山分かれており、志願者は願書へ第三希望まで書くようになっていました。 海軍志願者の憬れが予科練で、甲種飛行予科練と乙種飛行予科練に分かれておりました。甲種は中学三年終了程度の学科試験でしたので、私は乙種予科練を第一希望にしました。第二希望は軍楽兵にしました。
 私は小学生五年生の時に世界地図を見て以来、世界一周するのが夢でした。兵学校なら卒業後の艦務実習で世界一周航海へ行くことが出来ます。しかし学歴のない私は兵学校へ入ることは出来ません。但し世界一周の船には、必ず海軍軍楽隊があります。軍学兵になれば選ばれる可能性があるからです。
 残る第三志望は水兵しかありませんでした。明くる年の一月下旬に試験が行われましたが、第三志望の水兵にしか合格できませんでした。しかも乙種合格であったため、後日改めて採用通知を送ると云われ、その日は帰されました。
 それでも五月一日から呉海兵団へ入団することが決まりました。しかし、正式な通知がなかなか来ないので諦めかけていた頃、一週間前になって漸く届きホッとしました。 前日笠間駅へ集合して一泊し、翌日早朝に呉海兵団へ向けて出発・入団することになっていました。
それまで、見送る経験はあったものの見送られる経験は初めてです。 晴れがましい反面、恥ずかしくもありました。目の前に何本も幟があり、百人近い見送りの人たちがきてくれましたが、どんな挨拶をしたか全く覚えておりません。
 入団式が終わると、午後からは身体検査でした。二日目には改めて学科試験が行われ、各分隊に配属されました。三日目からは即訓練が始まりました。 想像以上に厳しかったのですが、若かったのと軍隊だから当然のこととすぐに納得しました。  (つづく)

大道芸講習会 今後の予定
●第二一二回目 九月十五日(水(すい))

●第二一四回目 十月二十一日(木)案

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
会費・一回五百円

●第二一一回目(臨時) 九月八日(水(すい))

●第二一三回目(臨時) 九月二十九日(水(すい))

時間・午後六時ー九時
場所・寺町通り区民集会所
会費・一回五百円

ONLY・1、No・1を目指 伝承会  
●日時 (HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)で通知)

時間・午後六時ー九時
場所・寺町通り区民集会所
会費・一回五百円


編集雑記
今年は戦後六十五周年に該当するせいか、これまで秘されていたことが次々世に出る。「大締一代記」も、正に当時が舞台だ。




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