大道芸通信 第29⑤号

画像画像画像画像

耳垢取(耳掃除)

 現在はアキバ美人が膝枕させながら「耳赤取(みみあかとり)」してくれるが、旧くは唐人スタイルの男が、道ばたで立ったまま行なった。膝枕だと、取れた耳垢が耳の奥へ落ちたりするので良くないという話を聞いたことがある。純粋に耳垢取りだけなら、藩政時代みたいに立ったままの方が合理的なようである。しかし、合理性だけでは動かないのが人の常。本人の希望に任せたほうがよろしいようである。
最初期の例は『京羽二重』(貞享二年(1685)刊)に、「耳の垢取、唐人越九兵衛」であり、『江戸鹿子』(貞享四年(1687)刊)が載す、「神田紺屋町三丁目長官」である。後者については『守貞漫稿』も、「耳垢取 神田紺屋町、長官と云者、これを生業とす」と述べる。
 但し、守貞漫稿が書かれたのは、天保以降幕末にかけてである。当時未だ続いていたのなら、神田紺屋町長官は相当な老舗である。山東京伝は『骨董集』(文化十一年(1814)刊)に、元禄時代半ばと鑑定した古図の写し「耳垢取古図」を載せている。それが右図である。説明によると、英一蝶画譜にも似たような絵があると書く。
 最後に『嬉遊笑覧』も耳垢取り論争に参加しているので紹介する。

《耳の垢取は『江戸鹿の子』に、神田紺屋町三丁目長官とあり。『五元集拾遺』観音で耳をほらせてほととぎす。『篗絨輪(わくじゆうりん)』延びたる爪は指のふくりん耳堀の髭 唐物の似せ渡り。『笑林広記』(三)一待招為人取耳といふ物語あり。こは髪結いひ耳垢をとることと見えたり》  (『嬉遊笑覧』)


●むぜうれいはうかじきとう(無上霊宝加持祈祷)

昔も今も女は弱い。無上霊宝とは、これ以上素晴らしい宝はないことである。続く加持祈祷は、仏の力を信者へ祈り(祈祷)与える(加持)ことである。約束した男がいつまで待っても来ないから、早く来るようにお清めしてやって下さい、と神主へ催促した。
 すると神主が、「高間さん(?)の客衆が、何時何時(いついつ)までも居続けまして」といいわけを始めだした。(このまま待ち続けるより)無上霊宝、(思い切って)新町へ行ってみませんか。
 ここの「新町」は、色町かと思うが、当時「新町」といえば、弾左衛門支配地のことであった。「無上」よ
り、「無常」や「無情」が相応しい。まるでありがたみがなさそうな対応である。ご利益のないインチキ宗教なのであろう。

●  はみがき

 今でもお宮参りをするときは、柄杓(ひしやく)で手を洗い口を漱ぐのが習わしである。神仏に願かけする際は、身を清めることが何より大切とされるからである。また清めには、今でも多く塩が使われるように、指に塩をつけて歯を磨いたのが歯清め(=歯磨き)の始まりとも云われる。
 一方、道具を使って歯を磨く習慣は、仏教の伝来と共にはじまったとされる。仏前にぬかずく前に菩提樹(ぼだいじゆ)の枝の一端を噛んで口を清めた。これが後に「房楊枝」へ変化したと伝わる。
 商品としての歯磨が販売されるようになったのは、寛永二年(1625)と云う。江戸の商人丁字屋喜左衛門が、朝鮮人から製法を教えられて製造した「丁字屋歯磨」や「大明香薬砂」が最初とされ、「口中あしき(=悪しき)匂ひを去る」と摺られてある袋に入れて売った。      (『道聴塗説』)

 元禄年間(1688~1704)には「乳香散」が販売され、
「この薬をもって磨く時は、その白さ銀を敷くる如く、一生口中歯の憂なし」と白さを強調するようになった。歯磨粉の材料は、房州(千葉県)砂や蛤の殻を焼いて粉にしたものにハッカなどの香料を加えたものであった。また歯ブラシは、柳の枝などを叩いて房状にした「房楊枝(ふさようじ)」を使った。

 享保年間(1716~1736)頃からは、街頭でも歯磨きが売られるようになった。松井源水は曲独楽を演じ、長井兵助は居合抜きで人を集めて歯磨きなどを売った。
 その頃になると、店売りで歯磨粉や房楊枝(ふさようじ)を売る場合は、客の気を引くため、看板娘を置くように    なった。その効果は覿面(てきめん)で、
 売り物に  するほど  客が 楊枝買い
と云われるほど流行った。中でも浅草寺奥山の楊枝店「柳屋」の看板娘「お藤」は、
明和(1764~1772)の三美人の一人。「笠森お仙」の対抗馬としても知られる。
 店の前に銀杏の木があったから、「銀杏娘」と呼ばれ、
「なんぼ笠森お仙でも、銀杏娘にゃかなやせぬ」と唄われた。(第170号参照)
 幕末には、百眼米吉と呼ばれた歯磨き売りがいた。 『風俗画報』に載せる「歯磨き 売り」はこれである。百眼と柳屋お藤(鈴木春信)云われる通り、喜怒哀楽を表現した色々な種類の「目かつら」をかけて歯磨きを売り好評を博したと云う。
 目かつらは「俄」(にわか)に使うような仮面のこと。アイマスクに似ているが、外が見えるよう目玉部分を刳り抜いてあるから、用途は全く逆。

●三 俣(みつまた)

 日本橋箱崎町に隣接する大川(隅田川)を浚渫した際、余泥で中洲を埋立て造成されたのが、日本橋中洲、通称三俣(みつまた)である。明和八年(一七七一)にはじまった埋立工事は、二年後の安永元年(一七七二)に中洲新地として竣工した。地理的環境もあってか、数年後には一大茶屋町となり、見世物や軽業、芝居小屋なども建ち並ぶようになった。中でも夏の夕涼み場所としては、京都の四条河原や大坂天満の涼みよりいいとの評判であった。
 処が寛政元年(一七八九)になると、質素倹約を旨とする改革が始まったからだろうか。元へ戻せといわれて、以前の中洲へ戻ってしまった。

天明(1781~1789)の頃、大川浚の節、三俣埋立茶屋町に成。涼の景色、京四条河原、大坂天満の涼増りたるといふ。寛政に、元の如く浚二へ仰出一、元の三俣になる。 (『飛鳥川』)

 明和八年(一七七一)の工事はじめから寛政元年(一七八九)の、取り払いまでの期間は十八年。何故そうなったか気になるが、『武江年表』は、次のように述べるだけである。

(寛政元年)十月より始まり、大川筋其の外川々御普請。中洲築地取払せられ、翌年に至り元の水面となる。  
庭云ふ。浅草川の洲を払ひ隅田川土手普請の土となる。土持人足かよひの為め仮橋かかる中洲取払の時、「屋根船も やかたも今は御用船 ちつつんは止み 土積(つちつ)んで行く」 (『武江年表』)
        
「ちつつんは止み 土積んでいく」とは何とも情けない。こうして人の住む地上からは姿を消した中洲新地だが、どっこい消えて無くなった訳ではない。人間の知らない所、竜宮へ引っ越したのである。気になる方は、本紙第百三十号掲載、「黄表紙に見る江戸の見世物」項の『箱入娘面屋人魚(めんやにんぎよう)』(山東京伝著/寛政三年〈一七九一〉刊)をご覧下さい。

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第二九三回目 十月十九日(水(すい))

●第二九四回目 十一月九日(水(すい))

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
  今月五日(月)深江戸開館三十周年記念イベント「にほんの大道芸」最初の打ち合わせを行った。いつもと異なる会場・小劇場へ集まり照明と音響技師を交え、リハーサルと意見交換を行った。今回はこれまでと異なり、大道芸を中心に行う。主要演目は、バナナの叩き売り、ヴァイオリン演歌、女霊媒師は始めて。虚無僧、一筆龍、すたすた坊主はお馴染みだが、人気演目。ほかも大いに期待して下さい。本番は十一月五日(土)午後一時開場です。


ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック