大道芸通信 第314号

画像画像画像画像立ち絵紙芝居と錦影絵(写し絵)

 上方で「錦影絵」,松江で「影人形」と呼ばれた「写し絵」は、映画やアニメの祖であると同時に「(立ち絵)紙芝居の祖」でもあると云われる。詳細については本紙第66号及び第171号に精しく書いたので興味のある方はそちらをご参照下さい。今号はこれまで気付かなかった「立ち絵」について考える。

当初、南蛮渡来の「阿(お)蘭(らん)陀(だ)影絵」とか「長崎影絵」とか呼ばれた錦影絵(写し絵)が、日本へ入ったのは十八世紀と言われる。『天狗通』(平瀬輔世著/安永八年(1779)刊)は、「幽魂霊鬼をあらはす」解説解答に、「影絵眼鏡にて白壁に絵を写す図」(本紙第171号掲載)を載せている。 また、『武江年表』が載せる次の一節も気になる。

《蔭(かげ)絵(え)の戯、( たわむれ )昔は黒き紙を切り抜き、竹串を四ッに割りて矢羽の如く刺し、行灯に写して玉藻の前の姿を九尾の狐に替らし、酒呑童子を鬼にかはらするの類にてありしが、享和中都楽といふもの、エキマン鏡といへる目鏡を種とし、ビイドロへ彩色の絵をかき、自在に働かするの工夫をなし、写し絵として見する。是より以来此の伎(わざ)行はれて、次第に巧みになり、其の門葉も多くなれり(此の都楽、今年嘉永元年(1848)七十九歳、生存して瀬戸物町に住せり)》(『武江年表』)

 上方ではもう少し早く行われていたようだが、江戸では享和年間(1801~1804)に都楽の始めた「写し絵」が嚆矢とされる。これの出現によって、墨一色であった影絵が、錦絵のように華麗になったことは、武江年表も書いている通りである。これが「錦影絵」と云われるようになった原因である。
 元からある「影絵」と「錦影絵(写し絵)」の相違は下記の通り。

①墨色影絵を見せるには黒い紙二枚を用意し、一方は「玉藻の前」,他方は「九尾の狐」の形に切り抜く。これを四つに割った竹串へ矢羽根のように交差させて挟む。最初は「玉藻の前」の影が壁や障子へ映るように、行灯の明かりを当てる。次に九十度回転させて,同じように行灯を当てると、今度は「九尾の狐」が映る。これを素早く転換すると、いかにも変身したように見える。「酒呑童子」も同じ。

②一方「錦影絵(写し絵)」の場合は、ガラス板へ彩色画を描き、「風(ふ)呂(ろ)」と呼ばれる投影機へ挟んで,和紙製のスクリーンへ裏から映す。その場合、投影者は、風呂を抱えて自在に動くことができる。そうすることによって、映像に動きをつけた。風呂を抱えて歩けば、映像も前へ進みスクリーンから離れれば大きくなる。これを自在に使い分けたのである。
 
かくして一世を風靡した錦影絵(写し絵)であるが、映画の隆盛と共に忽ち没落した。それでも当時は無声映画ばかりであったから、物語を進める弁士と、場の雰囲気を盛り上げる楽隊は必要とされたから、弁士については簡単に再就職できた。
 半面絵師は失業するものが多かった。落語家の前座をしてた新さんもその一人であった。
《新さんは一人で,動く幻灯の代用品を上演できないものかと考えて,紙人形の芝居を考案した》(『下町の民俗学』加太こうじ著) 
 こうして生まれたのが、「立ち絵紙芝居」である。しかし考えてみれば、影絵遊びに使われたものと、遊び方は同じである。違いは影絵のように、光を当てて投影するのではなく、描かれた絵を直接楽しむのが、違いとはいえる。
そんな立ち絵紙芝居だが、当初は出身母体である写し絵に敬意を表して? こちらも「写し絵」と呼ばれていたようである。しかし一般の人たちは、紙でで来た人形芝居、「紙芝居」と呼んでいたようである。それを真似て? 業界自身も間もなく「紙芝居」というようになった。
 この立ち絵紙芝居の実在した時期について、漠然と明治二十年代から大正末期ぐらいまでと云われることが多い。 しかし、錦影絵(写し絵)を追放した「シネマトグラフ」がフランスで発明されたのが明治二十八年(1895)である。これが、活動写真として日本へ輸入されるのは、明治三十年(1897)一~二月に、京都市で開かれたシネマトグラフによる上映会とされる。(平成二十八年(2016)十月一日の日経電子版に、京都より一ヶ月早い明治二十九年十二月に、大阪で試写会が行われた記録が発見された記事がある)
 いずれにしても明治二十年代は、シネマトグラフが、輸入され始めた程度である。 一般に流布するのは、もっとかかる。「立ち絵紙芝居」が始まったのは、明治二十年代ではなく、三十年代であると結論する。

 以下、立ち絵紙芝居の記録に残されたものをアトランダムに紹介するので、諸氏の判断材料の糧にして欲しい。

◎震災後、大がかりな区画整理で街の様相は一変した。(中略)お富士様の横に、細長い砂利置場があって、その一角に、テント張りの紙芝居が出ていた。この紙芝居、今のように厚紙に絵を描いて一舞ずつ差し替えるのとは、ま
るで方法が違っていた。まず三十人はゆうにはいれるテント小屋だった。椅子はなかったが、外と遮断された別世界という感じだ。入口に背を向けると、正面に三尺(約九十㌢㍍)に一間(六尺=約百八十㌢㍍)の舞台がある。舞台の背景は、黒い布が張ってある。
 お次は登場人物だ。葉書代の厚紙に人物を描き,人物のまわりは黒く塗りつぶしてある。その裏には同じ人物の応用動作が描いてある。この厚紙に竹の串を刺してくるりと廻せば、人物の動きが変わるわけだ。一人の人物の絵は何枚も用意してあって変化に富む。刀を抜いたり振り廻したり、背景が黒いから、人物がいかにも動いているように見える。竹串の脇に別の小さい串がついているのもあって,木立や塀や門などの舞台装置を差すようにもなっていた。
 仕掛けが複雑だから、人出もいる。舞台の下で次なる登場人物を用意する者、幕を引く者、鉦や大小の太鼓を鳴らす者、拍子木を打つ者など、なんだかんだで総勢七、八人もいたろうか。今のような平板な紙芝居は,どうしても動きが単純で味もない。これでは紙芝居ではなくて、絵物語といったほうが適切なんじゃないか、と思う。もっとも、 一人で演じて移動も簡単で,広い地域を舞われる利点があることは見逃せない(以下略)(浅草人情地図』大森亮潮著)

 右の(立ち絵)紙芝居は,大層なものであったが、自転車の荷台や脚立に載せて演じる簡素な物もあったようである

◎紙芝居の舞台は,自転車の荷台か脚立に載せてある長方形の粗末な木箱(幅約四十㌢、奥行約二十㌢位)の枠を利用したものだった。舞台の台にする箱の中には,紙芝居の主人公たちや,売る飴などが納められていた。
主人公たちは、棒の先の両面に黒のラシャ紙のような厚手の紙を貼った上に描かれていた。台紙の黒紙は、登場人物によって多少の大小の相違はあったけれど、大体、幅が五ー六センチ、丈がせいぜい十二、三センチあるかないか位のもので、周囲にはゆるい曲線がついていた。(中略)
 舞台になる木枠の裏側にはバック用の黒布が垂れ、前には紫の巻くが両脇にくくられていた。舞台の裾には、主人公を操る棒とおじさんの手が、隠れるように唐草模様の描かれた目隠し板が張られていた。箱の底板におじさんは手を置いて主人公たちの姿のついた棒を持って操った。(以下略)
(『毎日が縁日のようだった』杉原せつ著)

 加太こうじ氏も、立ち絵紙芝居について詳細に書いている。

◎紙芝居をはじめて見たのは、東京・下谷の小野照崎神社,通称小野照さんの縁日だった。ときは大正十二年の初夏の頃で,関東の大震災の数ヶ月前だったように思う。私は五歳だった。(中略)
その頃の紙芝居は裏表に人物の描写が描いてある縦十二センチぐらいの紙人形をいくつも使って,動かしながら芝居を進行させていくものだった。演者はたった一人ですべての人形を動かし,台詞をいった。ただし説明の文句はない。歌舞伎用の声(こわ)色(いろ)で人物を仕分けて,ドラ、鐘,太鼓,拍子木などの鳴物も鳴らしたのだから立派な芸だった。
 紙芝居は、もとは江戸時代末の動く幻灯(錦影絵=写し絵)だった(中略)
写し絵は寄席でお子様相手に上演された。ほかは夏の間の隅田川の納涼の時期に、写し絵を見せる小舟が来て、投げ銭をもらって映写して声色をいって見せた。しかし、写し絵は手数がかかるし、人数も大勢でないとできない。その上、ガラスに精密な絵を描いて染料で彩色するので,その費用も馬鹿にできない。それで写し絵師の両側亭船遊は明治中期に、もう一つの芸としてやっていた糸操りの人形専門になって写し絵をやめた。それが九代目結城孫三郎である。
そのとき、写し絵の絵を描いていた落語家の前座の通称新さんという男が失業した。(中略)
(『下町の民俗学』加太こうじ著)

後半、「写し絵は寄席でお子様相手に上演された」とあるのは新説である。写し絵を投げ銭で見せたというのもはじめて聞く。大変な費用と手間のかかる写し絵を、投げ銭だけで採算が合うはずもない。 九代目結城孫三郎が、明治半ばに写し絵をやめたのも、そろそろ大衆娯楽として定着し始めた活動写真(=映画)に席を明け渡したからではなかろうか。
そうは思うが言い切るにはまだデータ不足である。
それはともかく、(立ち絵)紙芝居は寄席を離れ、テキヤ傘下に入ることにより、活路を見出したようである。

《それは明治末から、大正、昭和初期まで続いた。業者H伝統を重んじて「東京写し絵業者組合」というのを昭和四年(1929)に作るが、その頃はすでに、紙芝居の名称が一般化していた。
 私は、そういう紙芝居を五歳の時に見て、そのおもしろさにひかれて、すぐにまねをした(以下略)》(『下町の民俗学』)

加太こうじは、そんな立ち絵紙芝居を昭和五年(1930)に描いたのが最初で最後といっている。また彼が後に引き継いだ「絵物語」形式の紙芝居『黄金バット』は、昭和五年に作られたという。その後暫くは混在していたが、
《紙芝居は昭和六年から七年にかけて、だれでもやれて、物語や表現も変化に富んだ、絵物語形式になってしまう》 (『下町の民俗学』)

技術を持っている者は、なかなか捨てられない。しかし、初めての人は簡単な方へ飛びつく。立ち絵紙芝居が物語形式のもの取って代わられたのは宜(むべ)なるかな、である。それでも昭和八年(1933)当時はまだ、「のらくろ伍長」に見るように、「立ち絵」が紙芝居の代名詞であったのである。

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第三一一回目 四月十一日(水(すい))

●第三一二回目 五月九日(水(すい))

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

◎特別練習
●第六回目
 日時・三月二十八日(水) 午後六時~
●第七回目
 日時・四月十八日(水)   午後六時~
 場所・烏山区民センター 大広間(二階)

☆「江戸の物売りと大道芸」へ会として出演します。
 日時・三月十七日(土)
  ①11:30~②14:00~
場所・深川江戸資料館   常設展示室

編集雑記
未だだいぶ先のことと思っていた「江戸の物売りと大道芸」だが、愈々今週である。ああしたらよかった、こうすればよかった。と、何時も「たられば」反省を繰り返している。嗚呼!



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