大道芸通信 第323号

画像女相撲は神代から

 土俵上で挨拶していた人が突然倒れたため、複数女性が救助に向かったら「女は土俵に上がるな」と館内放送があったと。それでも人命が大事と、心臓マッサージを始めた看護士に、繰返し「土俵から降りろ」の放送が続いたという。何でもそれが伝統とか。
「そんな伝統何時から?」
「人の命と伝統、どっちが大事?」
「だったら変えりゃええじゃないか」等々。
 普段相撲なんか見ない私でさえ思った。相撲協会は公益財団法人として、様々な優遇措置を受けている。その原資は税金である。何より女性が怒らんのが不思議 もっと怒るべきである。

「女性は土俵に上がっちゃいけん」と云う伝統が何時から出来たか?
どうせ新しいのじゃろうが。なんぼ古いちゅうたて 精々明治迄遡れるかどうかちゅうレベルである。ギャアギャア言いよる奴は誰も知らんし知ろうともせん。何故そんなことをいうようになったか。検証してみちゃる。

 そもそも相撲の始まりは、『日本書紀』雄略天皇十三年九月(五世紀末?)が記す左記の話のように「女相撲」からである。曰く。

「采女を集めて衣装を脱がせて褌をさせ、相撲を取らせた」。采女とは、天皇や皇后の身の回りの世話をする女官のことである。

《(原文)秋九月(中略)乃喚集采女使脱衣裙而著犢鼻露所相撲》   (『日本書記』)

 右の話は半分神話だが、「相撲」という言葉が世の文献に現れた最初である。
世間一般(利権集団相撲協会も含まれるか?)では、相撲のはじまりを、垂仁天皇七年(紀元前二十三年)に戦った、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)の対決としている。根拠はこれを「すまゐ」と呼んだから「相撲」のことであると。
 発音が同じだから意味も同じと、こじつけているだけの話。最後には宿禰が蹶速を蹴り殺しているから、実際には殺しあいの喧嘩である。恰も古代ローマで、奴隷同士、或いは奴隷とライオンを戦わせて勝った方が賞賛されたことと変わらない。今の相撲とは全く別物である。
 一方、相撲の方は奈良時代になると宮中行事として「相撲節会」が行われるようになる。勿論殺し合いとは無縁である。現在も各地に伝わる、神事としての相撲(含女相撲)の元祖だろうとは思うが、今号のテーマと離れるので、これ以上の詮索や言及は避ける。
 男相撲より先に始まった女相撲のその後については、(含男相撲)途中経過を省略し、江戸時代の女相撲興行まで一挙に飛ばす。井原西鶴の『好色一代男』(天和二年=1682刊)が載せる、「巻三 恋の捨銀(すてがね)」が、今のところ最初のようである。

《都よりうつくしきをあまた取よせ、誰おそるるもなく或時ははだか相撲、すずしの腰絹をさせて、しろきはだへ黒き所までも見すかして無礼講のありさま》 (『好色一代男』)

 雄略天皇の時もそうであったが、色気を前面に出したものが多いのは、天岩戸以来の伝統である。    
 なお、西鶴の活躍した頃までは、文化の中心は上方であったから、大坂が舞台になっている話が多いのもやむを得ない。文化が江戸へ移りはじめるのは享保年間(1716~36)以降である。従って、江戸で女相撲が顕れるのは延享年間(1744~48)頃からとされる。

●『続談海』(刊年不詳)
延享元年の記事「役人評判」
一 曲淵越前守を見て、女の角力じゃといふ。其心は両国ではほめられど
●『俳諧時津風』(1746)刊
女相撲 男より勝色ありや 女郎花   金井菴悟
●『世間母親容気』(宝暦(1752)刊)
見世物芝居に銭の山をなし。両国橋にて女の相撲も云々

全体を通して、見世物的要素が強いが、女相撲に限らず男相撲も、江戸時代の相撲は見世物か殿様抱えの太鼓持ち興行であった。かの有名な初代谷風梶之助(1694~1736)は讃岐高松藩の抱えであり、二代谷風梶之助(1750~95)も仙台藩抱えである。少し置いて雷電爲右衛門(1767~1825)もまた、松江藩の抱えである。 何れも殿様の顔に泥を塗るわけにはいかないので、今のモンゴル同様、初めから結果がわかっている八百長相撲である。
 だから、その集団に属する某横綱が優勝し続けたりしたのだろう。(そのことがバレた途端、負けや休みが増えたことからの推測)
 江戸時代の相撲も似たようなもの。でなければ、二代谷風の記録、安永七年(1778)三月場所初日から天明二年(1782)三月場所まで、分・預・休を挟みながら江戸本場所で土付かずの六十三連勝(止めたのは小野川喜三郎)、 その間に行われた大坂相撲にも勝ち続け、小野川に負けた後も、改めて四十三連勝の記録を残したというから、まともなら出来るはずはない。
 蛇足ながら、この記録は、約百五十年後に双葉山定次が六十九連勝を達成するまで破られていないとされる。
 なお天明二年(1782)三月場所で、谷風に土をつけた小野川喜三郎(1758~06)もまた福岡久留米藩抱えである。  何れも藩をしょっているからおいそれと無様な負け方をするわけにはいかず、星の貸し借りは当たり前、現在の巡業場所同様適当に(勝負の)ふりをしていたのである。だから、寛政三年(1791)年六月十一日に徳川家斉の前で行った上覧相撲、小野川と谷風との対決は、最初から出来レース、引分に終わつたのである。
 当初の相撲興行は、寺社の修理費や建設費を稼ぐための勧進相撲名目であったが、実際には娯楽として行われることが多かった。
 女相撲は色気を売り物にしていたと小生は思っていたが、「まともな相撲」「正式な相撲」であったと区分する人もあるようである。それはそれで構わないが、何れにしろ飽きられたのか、もっと刺激を求めたのか。考え出されたのが、座頭相撲(盲人男の相撲)との取組(コラボ)である。
 盲人が行なう相撲、座頭相撲が初めて行われたのは、永享二年(1430)に両国で行われた、とネットにあった。しかし、永享二年といえば室町時代だし、幕府も京都の室町にあった。将軍も徳川ではなく、六代将軍足利義教の時代。江戸城を創った太田道灌(永享四年~文明十八年=1432~86)が生まれる二年前である。未だ寒村だった江戸に、両国どという地名は未だない。竜宮城でなら兎も角、砂浜で相撲興行が出来るはずもない。実際に始まったのは女相撲同様、延享年間頃だろう。
 女相撲に限らず座頭相撲等、今なら差別的な娯楽として弾劾されかねない。しかし、当時そんな意識はなく、見世物興行的には人気だったそうである。差別や差別語は本紙取扱物件には、沢山出てくると思う。何故なら発行の目的が歴史的事実を記録することである。可能な限り原文を大切にし、言い換えなどの操作は極力しないからである。だが、それは差別意識ではなく歴史的事実を大切に思うが故である。これまでも今後も色々出てくると思うが、事情ご賢察の上ご了承願いたい。
 扨、話を元へ戻す。物珍しさもあって、当初は人気を博した座頭相撲もやがて飽きられ、起死回生策として、女相撲との取組が考え出されたようである。
太田南畝(蜀山人)が顕した『街談録』(=明和五年(1768)から文政五年(1822)までの五十四年間に、巷でおきた雑事の見聞録。南畝が二十歳から七十四歳までにあたる。全二十二冊)を元に、南畝の死(文政六年四月)後、編者(姓氏未詳)が、加筆し、全二十五巻に纏めたもの。
これに当時行われた様々な雑業等が、リアルタイムで記されてある。明和六年(1769)記事に、「難波新地曲馬前にて盲人角力、坂町裏にて盲人と女角力」(日本随筆大成8/吉川弘文館)とあるように、両者が合体したのも、明和年間頃のようである。それなら辻褄が合う。
 寛政二年(1790)に刊行された『玉磨(たまみがき)青砥銭(あおとがぜに)』は、山東京伝(作者)と喜多川歌麿(画)の合作である。これも女相撲と座頭相撲との対決だが、この絵を見る限り、取組の様子も真剣だし見物衆も結構真面目に 見ている。
また控えている女相撲取りの眼差しも緊張している様子が伺える。(一頁挿絵)
 こういうのを見ると「まともな相撲」説を支持したくなったりもする。しかし女相撲に限らず男相撲も所詮見世物興行でしかなかったのは先に書いたとおりである。 だから座頭相撲と女相撲の取組は長く続いたようである。明治五年に「男女相撲の見世物が差し止められた」とネットにある。しかし根拠について書かれていない。『武江年表』が載せる左記の時だろうか?
《(明治五年(1872)十一月)、両国橋畔の茶店、広場の看世物、虎御門外茶店、九段坂上御堀端の茶店等、残らず取払候様仰付けられたり      『武江年表』》 余談だが、この年の十二月三日を以て、明治六年一月一日とする布告(太陰暦→太陽暦)が出された(明治五年十一月二十日付布告=旧暦から新暦へ切替)
目的の一つは、古来からの「五節句」を廃し、「紀元節」や「天長節」を祝日とすることだった(『武江年表』) 男女相撲見世物は廃止されても、女相撲の方はしぶとく残り、昭和三十年代(1955~65)まで続いたようである。見世物学会学会誌『見世物7』が論文と多くの写真を載せている。 同誌は次のように書く。
「女相撲興行は昭和三十年代後半まで国内外で巡業されていた。(中略)女相撲興行の存在は江戸時代中期まで文献資料によってさかのぼれるのだが、より確実に、興行の終焉までの歴史を跡付けることができる点で、わたしは明治以降の興行を中心に話を進めようと思う」
凄いことだと思う。江戸時代までのことは、本紙でも概略はわかると思う。調べることは比較的容易に出来る。しかし、それ以降終焉までのことはお手上げである。
『見世物7』がなければお手上げだった。興味があれば同誌を読んで下さい。
 今年封切りされた映画『菊とギロチン』もすごい。大正時代に実在した、アナキスト集団ギロチン社と女相撲をダブらせながら、息が詰まる現代社会を何とかして変えたい逃れたいと、懸命に生きる姿が心に響く映画である。ゼヒ!

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承しませんか。練習日は左記の通りです。会場費一回八百円です
●第三二〇回目 一月九日(水(すい))

●第三二一回目 二月十三日(水(すい))予定
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
女相撲を好奇の目で見る人は多い。かくいう小生もそうであった。ところが今回少しは調べてみて?わかったというか気がついたことは「生きる」ことの大切さ大変さである。そのことを最初に気付かせてくれたのは、映画である。監督とも脚本家ともまるで他人だが、女相撲を書こうという切っ掛けを作ってくれた。 不知の人ながら心より感謝する。

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