大道芸通信 第330号

牛頭天王発祥地へ行く

 藩政時代に天狗の面を被って「わいわい天王 囃(はや)すがお好き」といいながら牛頭天王のお札をばらまいていた「わいわい天王」の元祖「蘇(そ)民(みん)神社」(現素盞鳴神社内)へ行ってきた。『釈日本紀』が載せる『備後国風土記』逸文に従い、その比定地とされる疫隈国社を訪ねたのである。

 福山駅から福塩線に乗り換え上(かみ)戸(と)手(で)駅で降りると、すぐ近くである。但し、駅を降り立ったときは途方に暮れた。正確な場所確認をせず「駅近」ということでうろ覚えのまま駅頭へ立ったからである。
 予定では駅前に案内図ぐらいあるだろうと思っていた。処が処がである。案内図はおろか聞こうにも人の気配がまるでしない。
 大いに焦って駅を中心に行動範囲を拡げ、人を探した。見事に誰もいない。やむを得ず道なりに右往左往し始めたら、左の向こう側にそれらしい塀が見えた。やれ嬉しやと、急ぎ訪ねたら果たしてそうであった。
 境内へ入ると、それぞれ「県社」「式内社」と書かれた二本の石碑が目に付く。しかしひたすら「蘇民社」を探す。と脇の方へ二軒続きの小屋みたいな長屋があった。その長屋の一軒がそうであった。「蘇民神社」と書かれた真新しい扁額がかかっていたが、中にはボロボロの祠が見えた。
それでも「茅の輪くぐり発祥の地 蘇民神社」と彫られた真新しい石碑が立っていた。云わずとも蘇民将来を祀った社である。
 重複するが以前、本紙第185号へ載せた『備後国風土記』逸文を再録する。
《備後の国の風土記にいはく、疫隈の国つ社。昔、北の海にいましし武塔神(むとうのかみ)、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまず)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず。兄の蘇民将来惜し奉りき。即ち、粟柄をもちて座となし、粟飯等をもちて饗へ奉りき。ここに畢へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく。「我、奉りし報答せむ。汝が子孫その家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の隨に着けしむるに、即夜に蘇民の女子一人を置きて、皆悉に殺し滅ぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄の神なり。後の世に疾気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき》
  (『釈日本紀』 巻の七)
 この頃は牛頭天王ではなく武塔神(むとうのかみ)である。これが一致するのは、十四世紀に編纂された『伊呂波字類抄』や『神道集』からであり、時代的には南北朝から室町時代にかけてである。
 なお、『釈日本紀』が載せる「吾は速須佐雄の神なり」は如何にも唐突である。何らかの作為があったと考えた方が自然である。
 それは兎も角、牛頭天王=素盞鳴(すさのお)という考え方は長く続き、明治の廃仏毀釈でより鮮明になる。元々仏教行事であった「茅の輪くぐり」も、神社の風習として今に引き継がれているのも面白い。
 ただ、わいわい天王を現在まで引き継いでいるのは、当会だけになったのが寂しいだけである。わいわい天王に限らず、日本の大道芸をきちんと伝承しているのも、何時の間にか当会だけになった。そのこと自体は、誇らしいが、半面、いつ絶滅してもおかしくない状況に陥ったことを危惧するだけである。
さて、牛頭天王へ戻る。先日まで、前天皇が退位の挨拶に伊勢神宮へ行くのが当たり前のようにマスコミを賑わしていたが、伊勢神宮へ行った最初の天皇は明治である。それ以前はどの天皇も伊勢神宮になど行ってない。何故か?
 牛頭天王の拠点の一つだったからである。 嘘だと思うなら、一度伊勢へ行ってご覧。何処の家の軒先にも、一年中〆縄がかかっているから。流石伊勢。そう思う間もなく〆縄のど真ん中に、何故か「蘇民将来子孫之門」と書かれた札がついている。本紙の読者ならすぐにおわかりと思うが、蘇民将来とは、牛頭天王銘柄である。明治に名指しで禁止された「わいわい天王」こと牛頭天王銘柄である。その子孫であることを高らかに宣言しているから面白い。
 それは兎も角、廃仏毀釈で取り残され、今も神仏混淆を続けているお寺があると。埼玉県飯能市にある天王山竹寺である。行って見た。
 経年劣化により歩けなくなっただけでなく運転免許証も持っていない小生には不可能だと諦めていたら、「精進料理を注文するなら迎え(往復片道とも千円)に行く」という情報が入った。それで何とか行くことが出来た。
昼食(精進料理)までは自由と云うことだったので、広過ぎる境内をうろうろした。
すぐ目に付いたのは「牛頭明王」と書かれた青銅製の像である。CHINAの民間人から送られたものだという。牛頭天王研究者のS氏によると「地上に降りないのが天王なら、降りたのは明王でなくて
はならない」とのことです。  (竹寺 牛頭明王像)
竹寺の面白いところは、本堂とは別に本殿があることである。初めは違和感を覚えた小生も、神仏混淆なら当たり前かと思えるようになりました。それで本殿へ行きました。 丁(てい)字型の本殿は、拝殿と本殿が合わさったものと見ました。丁字の一画目「一」部分の屋根の千木は﨑左写真のように外削ぎ七本です。
(本殿 実は拝殿?)
これに対し二画目は内削ぎ八本です。この形式は外宮と内宮の違いに似るか?
(本当の? 本殿)
 この本殿の後ろ横に環境庁と埼玉県が連名で書いた看板が立っていた。 曰く。(竹)寺の特色は、明治元年の神仏分離令にもれたことでお寺とお宮が同居しているところにある。(中略)
明治維新に行われた神仏分離令以前の混淆の姿をそのまま伝えるのは、この八王寺が東日本唯一のものである。  環境庁・埼玉県

 神仏分離令に漏れたと云うのが面白い。それをそのまま正直に書くのもいい。失敗も百年経てば、「東日本唯一のもの」と自慢げに書かれるとは。だから鳥居に茅の輪がついているのである。
  (竹寺 鳥居と茅の輪)
 鳥居の扁額に「天王山」と、山号が書かれてあるのは如何にも寺院である。だから本殿とは別に「本坊(本堂)」もあり、住職はそこにいる。行ってみて知ったことだが、竹寺は俗称で、正式には「医王山 薬寿院 八王寺」というそうである。但し、小生もその一人であるが、正式名称は殆どの人が知らないし通じない。
そんな竹寺の歴史は次の通りである。以下寺伝
 天安元年(八五七)に慈覚大師(最澄の弟子)が道場を開き、大護摩の秘法を修めたのが起源という。本尊は牛頭天王であり薬師如来を本地仏としている。明治政府が発令した神仏分離令に漏れたため、東日本では唯一神仏習合(混淆)を続けて今日に至る。と、極めて単純である。
 天安元年と云えば、平安時代の初期に近い。今から千二百年近い前である。本当にそんなに旧くからあったかどうかは兎も角、由緒が単純なのはいい。あれこれ屁理屈を並べなくとも誰もが存在を認めているからであろう。
大道芸銘柄の「わいわい天王」は、牛頭天王の後裔であることはすでに何度も述べた(本紙第315号ほか)が、知らん人のために重複をいとわず書いておく。
 天狗の面を被って牛頭天王のお札を蒔くわいわい天王最初の記録は、宝暦十三年(1763)刊行の『絵本花の緑』が載せる挿絵である。竹寺開山から九百年ばかり後のことだが、神仏分離令から漏れた山奥の竹寺はそんなことは知らない。
 それでも天保三年(1832)の『江戸名所図会』挿絵まで約七十年間の記録は残る。現在も神事として「お札まき」をつづけている、戸塚の八坂神社もある。同神社の由緒は次の通りである。
戸塚の八坂神社が、現在の名前になったのは昭和七年(1932)。元々元亀三年(1572)に内田兵庫が造立した牛頭天王社で、明治元年(1868)に八坂神社と改称させられた。
 造立後しばらくして荒廃していた牛頭天王社を、元禄時代に、兵庫の子孫・内田左衛門尉が復興した。
元禄十二年(1699)頃、江戸で「古呂利(ころり)」(コレラ以外も含む奇病)が流行った際、牛頭天王が持ち上げられた。疫病除けの神様だからである。「お札まき」のセリフの中に「ころりも逃げる」とある。江戸で猛威を振った奇病の流入を避けるために再興したかもしれないと。
またお札まきについては、「民俗学的には、巫者(ふじや) 神人(じんにん) 願人の系統に含まれる」。 しかし、種々解説を見ても、直接「わいわい天王」に触れたものはない。知らないのだろうが、面影を随所に留める。ただし、天狗の面を被るのではなく、女装した男たちがお札をまくという。写真で見た限りだが、お札は赤地に「正一位八坂神社御守」と擦り込まれてある。
 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承ませんか。練習日は左記の通りです。
●第三二六回目 六月十二日(水(すい))

●第三二七回目 七月十日(水(すい))予定
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
無(む)塔(とうの)神(がみ)から牛頭天王、そして素盞鳴(すさのお)へ。牛頭天王時代に流行ったのが、わいわい天王である。江戸中期から幕末にかけて爆発的に受け入れられたものであっても、庶民は移り気である。続かない。昨日まで大流行(おおはやり)であったものが今日には忘れられる。そうして新しいものが生まれる。その繰返しが歴史である。歴史の荒波は容赦ない。ワシントン条約も相手にしない絶滅危惧種大道芸の運命は?

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