大道芸通信 第342号

大道芸通信第342-①号.jpg大道芸通信第342-②号.jpgわ い わ い 天 王
左記のわいわい天王は英一蝶の『郡蝶画英 上』(明和六年=1769刊)が載せる「天王まつり」である。天狗の面を被っているのがわいわい天王であり、左手に持っているのが天王札である。その札を早く蒔けと、子供たちが催促しながら取り囲んでいるところである。遠くに見える幟は牛頭天王祭の幟である。普段は神田明神の地主神として片隅に鎮座させられ牛頭天王三社(牛頭天王=江戸神社、頗梨采女=妻女、八王子=八人の子供)も天王祭の日ばかりは晴れやかに祭が巡行された。その口火が、六月五日の日本橋大伝馬町(頗梨采女)である。これに続くのが七日の京橋南伝馬町(牛頭天王)、最後を締めるのが十日の日本橋小舟町(八王寺)である。『東都歳事記』は書く。
(六月)
五日○神田社地天王二の宮(五男三女或云稲田姫)祭礼大伝馬町二丁目御旅所(仮屋を補理す) へ神幸ありて八日に帰輿あり(解説略)
七日○神田社地天王一の宮(素戔嗚尊)南伝馬町二丁目の御旅所(仮屋)へ神幸ありて十四日帰輿あり(解説略)
十日○神田社地天王三の宮(奇稲田姫或は山田(ママ)の大蛇(オロチ))
小舟町一丁目の御旅所へ(仮屋を補理ふ)神幸ありて十三日帰輿あり(解説略)
(『東都歳事記』) 小生が書いた「牛頭天王三社」と『東都歳事記』が記す「神田社地天王一の宮~三の宮」は同じものである。
 それなら、何故呼び方も祭神名も違うのだろうと、不思議に思われる方もいるだろう。長年本紙の読者をしている人はまたかと思われるだろうが、知らない人のため簡単に説明をしておくと以下の通りである。
初めに牛頭天王三社が何故神田明神境内にあるかについて話さねばなるまい。
そもそも神田明神の神田とは、伊勢神宮へ捧げる稲を植える田圃のことで全国にある。「神田(みとしろ)」「御(み)田(た)」も同じである。東京の神田も例外ではない。そんな神田の守護神として最初に祀られたのが豊穣の神大巳貴尊(大国主命)である。
 処がその地は元来牛頭天王が祀られてあった。こういう場合、大抵後から来た神が先神を廃するのであるが、それが出来ない何かがあったのであろう。やむを得ず、神田明神の地主神として祭りあげ、境内地を実効支配することで手を打ったようである。
 これより以前、出雲国を譲った大国主命が、換わりに出雲大社を作らせた話と似ていると思うのは、小生だけであろうか。
 何れにしろ、出雲の換わりに柴崎村を手に入れたのが大国主命である。だから今でも神田明神の主祭神は大国主命なのである。
その後鎌倉時代に、真教坊(1237~1319)が、諸国遊化の途中で、神田明神へ寄り草庵を結んだ。現在は浅草へ移った「神田山日輪寺」のはじまりである。当時は
神田明神祭礼に際し、日輪寺の僧侶が神輿の出る前に誦経や念仏を唱えるのが恒例であった(『江戸名所図会』巻之六「神田山日輪寺」)。
その頃は神仏混淆であったから、本殿には仏像が飾られお経は勿論、祝詞なども坊主が唱えていた。従って神主は坊主の下働きに過ぎなかった。そんな積年の恨みが、明治維新に際し、無用な廃仏毀釈を引き起こしたのである。
その話は何れするとして、更に時代は移り、元和二年(1616)頃、神田明神は現在地湯島へ引っ越した。社伝ではすでに将門は合祀されてあったようなことをいうが、記録の上で平将門合祀が出てくるのは、もっと新しい。『江戸名所記』(1662刊)に、「此の社は将門の霊なり」とあるのが最初である。
扨、境内地を取り上げられ、地主神になった牛頭天王はどうなったか。境内地の西側へ社殿を建てて貰い牛頭天王三社(現在は三天王社へ名称変更)として祀られてある。その中心が「大政所」である牛頭天王(素戔嗚尊)を祀る「江戸神社」である。
牛頭天王を素戔嗚尊とした最初は、『釈日本紀』を編纂した卜(うら)部(べ)兼方が加筆したようである。何故と言うに、前後の脈絡もなくいきなり、「吾は速須佐雄(はやすさのお)の神なり」と出てくるからである。以来、出たり入ったりしているが、最終的に言い換えられるのは、慶応四年(1868)三月二十八日付で、神祇官事務局が出した「通達」によってである。

神祇官事務局達
慶應四年三月二十八日
一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少候(以下略)
一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、依頼相改可申候事
 附、本地抔ト唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事

某権現や牛頭天王の類、其の外仏教的なものの神社からの排斥命令である。これによって廃仏毀釈が起こるのである。牛頭天王は名指しで排斥され、一斉にスサノオへ変更させられるのである。
 牛頭天王を祀る総本山・京都の「感神院祇園社」などは、寺院部分は完膚なきほどに破壊されて円山公園にされ、祇園社部分のみ旧地名の山城国八坂郷から名前を取り「八坂神社」に改称された。その際、牛頭天王をスサノオへ変更された。以降全国の祇園社も「八坂神社」や字は違っても「素盞鳴神社」「諏訪神社」等へ換えられた。
 それでも庶民に支持されたものは強い。神社の祭りや地名までは換えることが出来ず、「祇園祭」や「天王祭」「天王通り」等今でもそのまま使われ続けている。
 東京で有名な「神田祭」。この祭の最初と最後を締めくくるのは現在も、御存知「千貫神輿」である。ところがこの神輿の本籍は、神田明神本体ではなく、末社ともいえる地主神・江戸神社なのである。だから神輿の鳥居に「牛頭天王」と書かれてあるのである。現在はどうなっているのか知らないが、かつて江戸を代表する祭であった「山王祭」と「神田祭」。この両祭の先陣を切るのは、祇園鉾であった。
 それ程身近であり生活に根ざしていた牛頭天王だが、上に記した「神祇官事務局達」によって存在することを否定されたから、現在知る人は少ない。これに伴い「わいわい天王」も姿を消した。ただ天狗の面を女装に換えることによって、僅かに痕跡を残しているのが、第333号(19年8月21日発行)で紹介した戸塚・八坂神社のお札撒きである。左のお札は現在同神社が蒔いていているものだが、赤色は疫病神に相応しい。実際にはお布施(牛頭天王は祇園精舎=寺院の守護神)次第で五色揃っているから、ここにも貧富の差が出てくる。いい加減なものである。
 それでもわいわい天王の片鱗を残すものとして今では貴重ではある。

津島牛頭天王社

わいわい天王との関係ははっきりしないが、祇園社系牛頭天王(疫隈國社 (えのくまのくにつやしろ)→ 広峯社 → 祇園社〔現八坂神社〕)とは別に、対馬から愛知県津島市へ来たとの伝承を持つ牛頭天王もある。それが津島牛頭天王社(現津島神社)である。同社社伝等によると次のようである。
・540(欽明天皇元年)対馬より転居……社伝
・810(弘仁九)現在地へ遷座。嵯峨天皇より受位受称……社伝
・990~84(正暦年間)一条天皇より受贈……社伝 但し延喜式神名帳不記載
・1175~78(安元元~治承二年)……七ツ寺蔵一切経伊勢内外梵尊五所牟山白山妙理熊野三所山王三聖鎮守三所多度津嶋南宮千代
大行司 熱田大明神 八剱大明神
・1188(文治四)訴訟文書尾張国津嶋社板垣冠者不弁所当之事
・1240(延応二)鉄打籠銘文 尾張国津嶋社板垣冠者不弁所当之事
・1309(延慶二)同右
・1337(延元二)同右
・1357(延文二)同右
・1403(応永十)梵鐘銘文尾張国海西郡津島牛頭天王鐘
・1868(明治元)神仏混淆禁止 津島神社へ改称
・1878(明治六) 県社
・1926(大正十五) 国幣小社(1946年二月廃止)
・1948(昭和二十三) 別表神社(至現在)

 長崎県対馬に『対馬紀事』(文化六年己巳五月朔旦 平山栞謹上)という書物があり、国会図書館デジタルコレクションで公開している。

祇園殿神社(訓久仁津加美於牟度乃)所祭之神一座素戔烏尊神体一座。所載干延喜式神名帳上県郡宇奴刀神社是也。貞観十二年三月五日従五位下宇奴刀神授従五位上三代実録類聚国史後有二叙位古事紀載素戔鳴尊孫為津島県主事則此祠即素戔鳴尊孫祭其祖神之処乎
欽明天皇元年庚申分対馬国進雄神霊祭尾張国海部郡津島是此神也神祠原在三根郷佐賀村
延徳三年辛亥六月十四日遷祭国府八幡宮之畔為摂社祇園今用音

 続いて 対馬教育会編『対馬島誌』

村社 宇奴刀神社 所在 八幡宮神社境内
一 祭神 須佐男命
一 由緒 神功皇后新羅征伐畢らせ給いて凱還の時、上県郡豊村に着せ給ひて、島大国神社(祭神須佐男命)を拝し、夫れより同郡佐賀村に着御す。此地に島大国魂神社の神霊を分って皇后親ら祭り給ふ。是れ「廷喜式神名帳」に載る上県郡宇奴刀神社なるを、延徳三年六月十四日佐賀村より下県厳原清水山鎮座八幡宮神社境内に遷奉る。此神を祇園と称することは 清和天皇貞観十一年山城国愛宕郡八坂郷の須佐男神を祭らせ玉ひて祇園(今の官幣大社八坂神社)と称するより此称号によるならん。須佐男神を此州に祭ること上県郡豊村に始まる。
豊村鎮座あるの地は須佐男神其子五十猛神を率いて韓地に渡らせ給ふ時、行宮の古蹟なり。此神は八十木種を植施し給ふ干今此神の恩頼を蒙らざるものなし最も崇敬すべきの神なり(以下略)。

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など古来から伝わる庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承しませんか。練習日は左記の通りです。

●第三四〇回目 六月十日(水(すい))
●第三四一回目 七月八日(水(すい))
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人(オンリー・ワンやナンバー・ワンを目指す人)のために、一名から学習会や特別練習も行っています。
●日時 ・場所(随時)
 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
先月に引き続いて今月も自主練習に切り替えた。本当は顔を合わせての練習をしたかったのだが、会場の方が閉鎖されてしまったからやむを得ない。それでも練習は必要である。声を出すことが大事である。
 自主練では中々大声を出せないが、練習したか否かの差はすぐに顕れる。とりわけ高齢になると少しサボると途端に声が出なくなる。大声でなくとも声を出す事が大事な所以である。


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