江戸の珍商売(生業)②
江戸の珍商売②とあるが、前回乗せたのは第240号だから、三年近く前である。「そんなの覚えてないよ」と云われそうだが、ブログで検索してみて下さい。何れにしろ、これまで紹介していないものを中心に載せる。
●雷ごろごろ
雷公の与次郎(乞食)は安政(1854~1860)頃まで来たりしが、其の後は…
『香具師の全貌』
『香具師の全貌』(国会図書館蔵)は昭和十七年(1942)三月に、内務省警保局が、「部外秘 刑事警察研究資料第一七輯」として刊行された。
「序」に、「本編は昭和十四年六月、千葉地方裁判所主催にて、判・検事、司法官試補等列席して、千葉県幕張町藤田鶴吉氏を聘して香具師社会の内情につき研究懇談を遂げた状況を筆記した…
『江戸名所百人一首』に見る生業
『江戸名所百人一首』は、前号で紹介した『どうけ百人一首』と同じ近藤助五郎清春(生没年未詳)著作である。『新編稀書複製会叢書』の解説によると、元板は享保年間(1716~36)「通油町村田板」、再版は「元文年中(1736~41)人形町通平野屋」であると。
本復刻版外題に「人形町平野屋」とあるから再…
『どうけ百人一首』に見る小商人(こあきんど)
『どうけ(道化)百人一首』は、近藤助五郎清春(生没年未詳)が、著述した『小倉百人一首』をもじった狂歌集である。これに当時の関連する世相を顕し(あらわ )た挿絵を載せている。刊行年は不明だが、享保・元文年間(1716~41)頃の風俗が描かれてあるようだから、その頃刊行と思える。 こ…
深川江戸資料館主催
「江戸の物売りと庶民芸」
盛況裡に終了
先月二十日(土)に開催された深川江戸資料館主催イベント「江戸の物売りと大道芸」シリーズの第三回目へ出演したところ、入館者総数は二百五十名でした。一見多そうに見えますが、前回の半分です。諸般の事情があったにせよ、少々情けない数字で…
https://www.youtube.com/watch?v=rCLQf7MBN7s
江戸の物売りと庶民芸
九月二十日(土)開催
(一回目)一三時〇〇分~一三時四〇分
(二回目)一四時三〇分~一五時一〇分
主催: 深川江…
『塵塚談(ちりづかだん)』が載せる雑事・雑業
塵塚談は、小川顕道の随筆である。元文二年(1737)生まれ。文化十一年(1814)、七十八歳(=数え年)になったとき、「其の間の世の風俗を思い出すにまかせて書きつらね」たものである。この中から、これまで紹介していないもので、関係ありそうなもの、なくとも知っていた方がいいものを紹介す…
夏の行事と生業
現在の夏は、六・七・八月だが、藩政時代は、四・五・六月であった。今でも旧暦という言い方をして、当て嵌(は)めることもあるが、七夕(たなばた)やお盆のように月後(つきおく)れという方をすることの方が多い。まして、衣替えと同時に猛暑が続くようになると、猶更(なおさら)季節が先廻りする。
「目に青葉 山杜鵑(やまほと…
『東都歳事記』が載す 変 な 生 業
●親孝行
変な生業の中でも筆頭は、親孝行であろう。親孝行が何で生業になるのか現在ではよくわからないが、そこそこ実入りがあったようである。
左図がそれであるが、本体は扇を半開きにして持っている婆さんである。婆さんを背負っている頬被りした男は人
形であるが、息子とい…
日本の大道芸(江戸の物売りと大道芸)前編
http://youtu.be/3JYNiMKKBeE
日本の大道芸(江戸の物売りと大道芸)中編
http://youtu.be/K0L2Q7ywj1E
日本の大道芸(江戸の物売りと大道芸)後編
http://youtu.be/ljTbh4LptZI
江戸のおもしろ生業
『新文字絵づくし』(明和三年=1766刊)は、『文字絵づくし』(貞享二年=1685年刊。本誌第116号「資料編」で覆刻)の影響を受けて刊行された。その間約八十年。何れも当時流行(はや)った生業を、巧みに挿絵に嵌(は)め込んだ絵を描く。
中には「なんで?」と思うような姿をしているものもあるが、皆生きること…
『煕代勝覧(きだいしようらん)』が載せる生業⑤
○武家の結納 結納品の鯛を中間に運ばせているところ。息杖(いきづえ)を使って慎重に運んでいる。
○振り売り こちらも息杖を持っているから、重い商品であろう。海草類かと思えるが、色合い(茶色)から見て、干瓢の(かんぴよう )ようなものか?
○按摩?鍼灸師? …
深川江戸資料館主催
「江戸の春~物売りと大道芸」 大盛況裡に終了
昨年九月に続き、先月二十二日に開催された深川江戸資料館主催イベント「江戸の春~物売りと大道芸」へ出演したところ、入館者数五百名という大盛況のうち終えることが出来ました。 これも会員の皆様や本紙読者を始め、多く…
『煕代勝覧(きだいしようらん)』が載せる生業④
・菜売り 一日中重い野菜を担ぐため、休憩などの際に使用する息杖(いきづえ)を持っている。ここでは、右肩に掛かる荷重を減らすため、天秤(てんびん)棒と左肩の間に入れている。
・未 詳 担(にな)い棒に掛けた網の中には、相当重いものが入っているのだろう。左手で持っている…
江 戸 の 春
現在、お正月は冬ですが、江戸時代までは春でした。つまり、暦と四季が一致していました。ですから、一月から三月までが春、四月から六月までが夏の順に、七月から九月が秋、十月から十二月までが冬でした。その名残が年賀状に「初春」と書いたりする風習として残っていたりします。暫く江戸の春にお付き合い下さい。
○元日は…
『煕代勝覧』 が載せる生業③
①鉄棒(かなぼう)を持つ番太(ばんた)へ指示を出している町(まち)鳶(とび)の親方
②右手に角樽(つのだる)、左手に通い帳を持つ酒屋の小僧(手前)と天秤棒を担ぐ魚売り?
③虚無僧(こむそう)と客待ち中の辻駕(つじか)籠屋(ごや)(手前の二人)
④甘酒屋
⑤イ 小間物屋、ロ 道具箱を運ぶ大工、…
煕代勝覧 が載せる生業②
●御蔭参(おかげまいり)の路銀を受ける小僧
「お蔭年(かげどし)(六十周年ごとに来るとされるが、小生は知らない)に流行ったとされる伊勢参り。実際には、決まっていないようだ。が、奉公人や小僧などが主人に無断で伊勢神宮へ参詣することを「おかげ参り」とか「抜け参り」と呼んだ。お金を持たずとも、柄杓(ひしやく)…
『煕代勝覧』が載せる生業
●馬 子 右端の馬を引く男
馬を使って人や荷物を運ぶことを職業とした人を馬子(まご)といった。馬子にも衣装という諺は( ことわざ )、つまらない人間でも、衣装を整えれば立派に見えるということ。それほど馬鹿にされた?
●巡 礼 橋を渡り右へ向う二人連れ
巡礼とは、聖地を巡る宗教行為一般の…
『塵塚談』が載す雑事
『塵塚談(ちりづかばなし)』は、小川顕道(一七三七~一八一六) が七十八歳のときに顕した風俗随筆である。「傀儡師」をはじめ「ケコロ」「年玉扇子箱」「厄払い」「瀬戸物焼継」「ヒルコ玉」等々、江戸中期から後半にかけて流行った?風物を書留めたものである。中から知っておいた方がいいと思うものを選び紹介する。
…
木 魚 講(もくぎよこう)
家族や子供に迷惑を掛けないうちにぽっくり死にたいというのが、最近の流行である。本心かどうか知らないが、ヤレ自然葬だ散骨だと好き勝手なことばかり云う爺婆(じじばば)が矢鱈(やたら)に増えた。自然葬だろうが何だろうが、自分で自分の骨を蒔(ま)くことなど出来るはずもない。必ず誰かの手を煩わ(わずら )す。…
江 戸 の 一 日
個人が時計を持つ事のなかった江戸の庶民にとって、時間を知る方法は、一刻・約二時間毎に鳴らされる刻の鐘によってでありました。それと同時に庶民にとっては、毎日決まった時間にやって来る物売り商人たちの振り声でした。むしろ、その方が、刻の鐘よりも余程身近でした。ですから、
行く先の時…
出し見世・床見世
出しみせも床見世も同じ店構えのことである。京坂では出し見世、江戸では出し見世と云った店構えの再確認である。『守貞漫稿』は次のように云う。
《三都(京都、大坂、江戸)とも市店の庇下の(ひさしした )不用なる所、あるひは諸橋前後の塁地、俗に云ふ橋台にて石垣上なり。あるひは諸塁地に板小屋を建て諸物を売る者を、京坂…
水 茶 屋
江戸の茶店について『守貞漫稿』は次のように云う。
《天保府命前は、専ら十六七より二十歳ばかりの美女、各々紅粉を粧ひ、美服を着し之を行ふ。府命に之を禁じて、俄に眉を剃り歯を染むる者(=既婚者の姿)多し。婦の姿となれども、猶(なお)紅粉を捨てず。又、美服を着す云々(中略)江戸にては、茶店とも、或ひは水茶屋とも…
是 齊(ぜさい) と 定 齋(じようさい(じよさい))
消暑薬として知られる「じょさい(じょうさい)」は「定齋」と書くのが普通であり「是齋」は当て字だと思っていた。処が実際は逆らしいことに、今更ながら気づいた。
『東海道名所図会』(寛政九年(1797)刊)「梅木(うめのき)」は次のように書く。
《梅木(割註)本名六地蔵…
東都歳時記が載せる小商人(こあきんど)
『東都歳時記』は、天保九年(1838)に江戸で刊行された。著者は、神田雉子町名主齋藤月岑(げつしん)であり、長谷川雪旦・雪堤親子が挿絵を描いた。『江戸名所図会』と同じ顔ぶれである。全体を四季に分け、正月(=一月)から順に江戸や近郊の年中行事等を書き表している。これに雑業を含む様々な小商人…
昭 和 の 大 道 芸
自由民権運動の流れを汲む、最初期の演歌師の一人、添田唖蝉坊は、『浅草底流記』で、次のような話を載せている。《香具師の中の大ジメ師と称するもの。これは円陣に人を集める。彼のコマ廻し松井原水の流れ、ひたすら弁舌を以て商売をする。
これにはリツ(法律家)、キンケン(統計表)、カリス(まじないの本)、…
京 の 珍 商 売
千年の歴史を誇る京都には名所旧跡も多く、ほかでは考えられないような商売もあった。左図は『方言修行(むだしゆぎよう) 金の草鞋』〈十返舎一九著/天保年間(1830~1844)頃刊〉三編「京大坂の記」が載せる四条河原の賑わい風景の一齣である。
今も四条大橋のたもとに南座があるのは、出雲阿国(いずものおくに)以…
浄瑠璃の系譜
浄瑠璃は室町時代に、遊行僧の伝える平曲(=琵琶を伴奏に平家物語を語る)から発生したが、『浄瑠璃十二段草子』(浄瑠璃物語=浄瑠璃姫と牛若丸の話)の大ヒットに伴い「浄瑠璃」と呼ばれるようになったとされる。『守貞漫稿』も云う。
《源牛若丸が矢矧長者の娘浄瑠璃姫と云はるるに通じたることを作り、十二段としたる作り物語…
香具師(やし)の内幕 ゴールド会社②
前号の続きは、欺(だま)される方が悪いと嘯く(うそぶ )輩の弁から
△欺すは賢欺されるは愚▽
山田は一時ある事業に失敗して、それからヤサウチを始めた。九州を出て、馬関(ばかん)に至り、広島を打ってー商売の意味ー京都に乗り込んだ。時は恰も(あたか )本願寺の宗祖六百五十年祭…
香具師(やし)の内幕 ゴールド会社
右の話は『文芸倶楽部』第十九巻第九号(一九一三=大正二年七月号)に掲載された。同誌は、一八九五年(明治二十八)一月から一九三三年(昭和八)一月まで、博文館から刊行された文芸雑誌である。著者は谷人生。同氏の履歴は未詳だが、同誌十一月号にも「路傍(みちばた)の流行歌(はやりうた)」(本紙第1…
三 続 二八そば
久々にそばの事を書こうと思ったのは、すばらしい論客百楽天氏と出会ったからである。二八そばの語源について私は値段(十六文=二×八)だと思っているが、百楽天氏は配合説(当初=そば粉二うどん粉八→後年=そば粉八うどん粉二)である。
しかしながら、その博識たるや半端ではない。私など到底足下に及ぶもので…
新潟市(旧巻町)所蔵の覗きからくり
覗きからくり『幽霊の継子いじめ』を持つ事で知られる旧巻町に新しく『八百屋お七』の屋台が完成し、実演も行われていると、磯田さんが確認してきたので紹介します。
左記は実演中の写真である。同時に録音も採ってこられたので聞いてみたら、曲節も歌詞も我々が歌っているのとは大分異なる。かつて酒席で…
神田明神・祇園三社と将門塚
「神田」と云う地名は全国にある。昔は諸国から新稲を伊勢神宮に奉納する習わしがあり、納める稲を植える稲田を「神田(かんだ)」とか「神田(みとしろ)」或いは「御田(みた)」と呼んでいた。東京の神田もまた同じ由来を持つ。そんな稲田の五穀豊穣を願うために大己貴命((おおなむちのみこと)大国主命)を祀ったのが、「…
随筆に見る江戸の珍商売(生業)
元禄時代(1688~1704)頃までは、上方(かみかた)が中心であった文化も、享保(1716~36)を過ぎる頃から徐々に江戸へ移り始める。それに伴い書かれたものも増え、幕末期に全盛となる。とりわけ当時の文化人が残した随筆の中には、今はない生業も数々ある。取り敢えず山東京伝の弟、京山の随筆『蜘…
江 戸 の 珍 商 売 (生 業)
六十六部(六部)・遍路・巡礼・千手観音・金比羅行人……
日本全国六十余州の霊場を巡り、書写した法華経を一部ずつ納めることを目的に巡礼する者を、六十六部または略して六部と言った。死語の冥福を祈って鉦を叩き、鈴を振り、厨子を背負って家々を廻り喜捨を求めた。実際にはどこへも行かず喜…
『我衣』が載せる 諸事初め
『我衣』は文化年間(1804~1817)頃、加東曳尾庵(かとうえびあん)南竹(1763~?)が著したもの。寛永(1624~)から宝暦(1751~1764)にかけての世態風俗を記した諸書からの抄出、文化年間の同種の風聞などを年代順に配列した随筆集(写本十九巻二十一冊)である。これが載せる諸事初めのうち関…
菊人形(きくにんぎよう)と活(いき)(生)人形
菊細工から菊人形への流れは比較的知られている。しかし、絡繰(からくり)人形・活(いき)(生)人形もまた菊人形へ合流した。その変遷を主に『武江年表』等によってたどる。(本紙107号、204号参照)
◎文化九年(1812)
・九月、巣鴨染井の植木屋にて、菊の花…
御 免 勧 化(ごめんのかんげ)
「御免勧化」については、清水晴風(1851~1913)の『街の姿』(活字本)が挿絵と共に簡単な説明を載せる。
《御免のかんけは町々の自新(身)番より駒形にごめんと書いたる札を借受(かりうけ)、戸毎に御免のかんけといふて銭を貰ふ。此の者等の御免のかんけの株とて売買なるものなりといふ》
…
柳亭種彦『正本製』に載る生業
江戸後期の戯作者・柳亭種彦(1783~1842)は合巻『偐紫田舎源氏』(1829~42刊)の著者として知られる。元々本所生まれの旗本であり、家禄は二百俵である。『正本製』は、文化十二年(1815)から天保二年(1831)に掛けて全十二編を刊行した(挿絵は国貞)。「正本」とは、原本の意味であり、ここでは…
神田明神境内に鎮座する祇園
牛頭天王三社(現三天王社)
藩政時代、江戸の街には「わいわい天王」と呼ばれる大道芸人が盛んに出没していた。天狗の面を被って子供を集め、「わいわい天王囃(はや)すがお好き。喧嘩(けんか)は嫌い仲良く遊べ」などと、唱えながら「牛頭天王(ごずてんのう)」と書かれたお札をばらまき、後で親…
江戸の楽しみ
覗きからくりの変遷
今時「覗(のぞ)きからくり」と云っても、大抵の人は知らないだろう。最後に演じられたのが、昭和四十年代(1965~74)後半と云われるから、すでに五十年近く経つ。知らない人が多いのもやむを得ない。しかしそれをいいことに、根拠のない俗説が蔓延(はびこ)っているから、…
『方言修行(むだしゆぎよう) 金(かね)の草鞋(わらじ)』(十返舎一九著)に見る
伊勢 相(あい)の山(やま) の物貰い
相の山は伊勢神宮の外宮と内宮の間にある小高い丘を云い、行楽地として知られていた。一立斎広重筆の『東海道風景図会』に、次のようにある。
「両宮(=外宮と内宮)のあはひ(間)にあるゆえに、…
秘伝『天狗通(てんぐつう)』
『天狗通』は寛政八年(1796)に刊行された手妻の種本である。先行するものとして本紙223号で紹介した『放下筌』(宝暦十四年=1764刊)がある。何れも大道芸危険術に取り入れられた実績がある。原文の儘紹介する。(□は判読不明)
①釜を鳴らす術 ②釜に煮湯(にえゆ)に入て熱からぬ術 ③大入道頭を出…
京都 糺(ただす)川(河)原の見世物
糺川原(河原)は加茂川と高野川の合流地にある三角州であり、下鴨神社の境内「糺の杜(もり)」の一角である。京都の遊興地と云えば四条河原が著名だが、ここも劣らず賑わっていた。
左図は、山東京伝の『糸桜本朝文粋』(文化七年=1810)が載せる「糺川原の図」である。ざっと見渡した…
『日本風俗畫大成』に見る
「門(かど)つけ」と「猿廻(さるまわ)し」
『日本風俗畫大成』は一九二九(昭和四)年に、中央美術社から出された。これの「第八 明治時代」は、明治時代の画家が描いた絵に、鏑木清方(1878~1972・日本画家)が解説を書いている。 中から「門つけ」と「猿廻し」を紹介する。
…
ユネスコ記憶遺産 山本作兵衞画・文
炭 鉱 記 録 画 ・ 文
皆さん周知のこととは思うが、五月二十五日、筑豊炭田で炭鉱夫をしていた山本作兵衞(1892.5~1984.12)氏の炭鉱記録画・文が、ユネスコの記憶遺産に登録された。日本の炭鉱労働者の記録が登録されたのは無論初めてのことである。
本紙は…