『煕代勝覧(きだいしようらん)』が載せる生業⑤
○武家の結納 結納品の鯛を中間に運ばせているところ。息杖(いきづえ)を使って慎重に運んでいる。
○振り売り こちらも息杖を持っているから、重い商品であろう。海草類かと思えるが、色合い(茶色)から見て、干瓢の(かんぴよう )ようなものか?
○按摩?鍼灸師? …
深川江戸資料館主催
「江戸の春~物売りと大道芸」 大盛況裡に終了
昨年九月に続き、先月二十二日に開催された深川江戸資料館主催イベント「江戸の春~物売りと大道芸」へ出演したところ、入館者数五百名という大盛況のうち終えることが出来ました。 これも会員の皆様や本紙読者を始め、多く…
『煕代勝覧(きだいしようらん)』が載せる生業④
・菜売り 一日中重い野菜を担ぐため、休憩などの際に使用する息杖(いきづえ)を持っている。ここでは、右肩に掛かる荷重を減らすため、天秤(てんびん)棒と左肩の間に入れている。
・未 詳 担(にな)い棒に掛けた網の中には、相当重いものが入っているのだろう。左手で持っている…
江 戸 の 春
現在、お正月は冬ですが、江戸時代までは春でした。つまり、暦と四季が一致していました。ですから、一月から三月までが春、四月から六月までが夏の順に、七月から九月が秋、十月から十二月までが冬でした。その名残が年賀状に「初春」と書いたりする風習として残っていたりします。暫く江戸の春にお付き合い下さい。
○元日は…
『煕代勝覧』 が載せる生業③
①鉄棒(かなぼう)を持つ番太(ばんた)へ指示を出している町(まち)鳶(とび)の親方
②右手に角樽(つのだる)、左手に通い帳を持つ酒屋の小僧(手前)と天秤棒を担ぐ魚売り?
③虚無僧(こむそう)と客待ち中の辻駕(つじか)籠屋(ごや)(手前の二人)
④甘酒屋
⑤イ 小間物屋、ロ 道具箱を運ぶ大工、…
煕代勝覧 が載せる生業②
●御蔭参(おかげまいり)の路銀を受ける小僧
「お蔭年(かげどし)(六十周年ごとに来るとされるが、小生は知らない)に流行ったとされる伊勢参り。実際には、決まっていないようだ。が、奉公人や小僧などが主人に無断で伊勢神宮へ参詣することを「おかげ参り」とか「抜け参り」と呼んだ。お金を持たずとも、柄杓(ひしやく)…
『煕代勝覧』が載せる生業
●馬 子 右端の馬を引く男
馬を使って人や荷物を運ぶことを職業とした人を馬子(まご)といった。馬子にも衣装という諺は( ことわざ )、つまらない人間でも、衣装を整えれば立派に見えるということ。それほど馬鹿にされた?
●巡 礼 橋を渡り右へ向う二人連れ
巡礼とは、聖地を巡る宗教行為一般の…
『塵塚談』が載す雑事
『塵塚談(ちりづかばなし)』は、小川顕道(一七三七~一八一六) が七十八歳のときに顕した風俗随筆である。「傀儡師」をはじめ「ケコロ」「年玉扇子箱」「厄払い」「瀬戸物焼継」「ヒルコ玉」等々、江戸中期から後半にかけて流行った?風物を書留めたものである。中から知っておいた方がいいと思うものを選び紹介する。
…
木 魚 講(もくぎよこう)
家族や子供に迷惑を掛けないうちにぽっくり死にたいというのが、最近の流行である。本心かどうか知らないが、ヤレ自然葬だ散骨だと好き勝手なことばかり云う爺婆(じじばば)が矢鱈(やたら)に増えた。自然葬だろうが何だろうが、自分で自分の骨を蒔(ま)くことなど出来るはずもない。必ず誰かの手を煩わ(わずら )す。…
江 戸 の 一 日
個人が時計を持つ事のなかった江戸の庶民にとって、時間を知る方法は、一刻・約二時間毎に鳴らされる刻の鐘によってでありました。それと同時に庶民にとっては、毎日決まった時間にやって来る物売り商人たちの振り声でした。むしろ、その方が、刻の鐘よりも余程身近でした。ですから、
行く先の時…
出し見世・床見世
出しみせも床見世も同じ店構えのことである。京坂では出し見世、江戸では出し見世と云った店構えの再確認である。『守貞漫稿』は次のように云う。
《三都(京都、大坂、江戸)とも市店の庇下の(ひさしした )不用なる所、あるひは諸橋前後の塁地、俗に云ふ橋台にて石垣上なり。あるひは諸塁地に板小屋を建て諸物を売る者を、京坂…
水 茶 屋
江戸の茶店について『守貞漫稿』は次のように云う。
《天保府命前は、専ら十六七より二十歳ばかりの美女、各々紅粉を粧ひ、美服を着し之を行ふ。府命に之を禁じて、俄に眉を剃り歯を染むる者(=既婚者の姿)多し。婦の姿となれども、猶(なお)紅粉を捨てず。又、美服を着す云々(中略)江戸にては、茶店とも、或ひは水茶屋とも…
是 齊(ぜさい) と 定 齋(じようさい(じよさい))
消暑薬として知られる「じょさい(じょうさい)」は「定齋」と書くのが普通であり「是齋」は当て字だと思っていた。処が実際は逆らしいことに、今更ながら気づいた。
『東海道名所図会』(寛政九年(1797)刊)「梅木(うめのき)」は次のように書く。
《梅木(割註)本名六地蔵…
東都歳時記が載せる小商人(こあきんど)
『東都歳時記』は、天保九年(1838)に江戸で刊行された。著者は、神田雉子町名主齋藤月岑(げつしん)であり、長谷川雪旦・雪堤親子が挿絵を描いた。『江戸名所図会』と同じ顔ぶれである。全体を四季に分け、正月(=一月)から順に江戸や近郊の年中行事等を書き表している。これに雑業を含む様々な小商人…
昭 和 の 大 道 芸
自由民権運動の流れを汲む、最初期の演歌師の一人、添田唖蝉坊は、『浅草底流記』で、次のような話を載せている。《香具師の中の大ジメ師と称するもの。これは円陣に人を集める。彼のコマ廻し松井原水の流れ、ひたすら弁舌を以て商売をする。
これにはリツ(法律家)、キンケン(統計表)、カリス(まじないの本)、…
京 の 珍 商 売
千年の歴史を誇る京都には名所旧跡も多く、ほかでは考えられないような商売もあった。左図は『方言修行(むだしゆぎよう) 金の草鞋』〈十返舎一九著/天保年間(1830~1844)頃刊〉三編「京大坂の記」が載せる四条河原の賑わい風景の一齣である。
今も四条大橋のたもとに南座があるのは、出雲阿国(いずものおくに)以…
浄瑠璃の系譜
浄瑠璃は室町時代に、遊行僧の伝える平曲(=琵琶を伴奏に平家物語を語る)から発生したが、『浄瑠璃十二段草子』(浄瑠璃物語=浄瑠璃姫と牛若丸の話)の大ヒットに伴い「浄瑠璃」と呼ばれるようになったとされる。『守貞漫稿』も云う。
《源牛若丸が矢矧長者の娘浄瑠璃姫と云はるるに通じたることを作り、十二段としたる作り物語…
香具師(やし)の内幕 ゴールド会社②
前号の続きは、欺(だま)される方が悪いと嘯く(うそぶ )輩の弁から
△欺すは賢欺されるは愚▽
山田は一時ある事業に失敗して、それからヤサウチを始めた。九州を出て、馬関(ばかん)に至り、広島を打ってー商売の意味ー京都に乗り込んだ。時は恰も(あたか )本願寺の宗祖六百五十年祭…
香具師(やし)の内幕 ゴールド会社
右の話は『文芸倶楽部』第十九巻第九号(一九一三=大正二年七月号)に掲載された。同誌は、一八九五年(明治二十八)一月から一九三三年(昭和八)一月まで、博文館から刊行された文芸雑誌である。著者は谷人生。同氏の履歴は未詳だが、同誌十一月号にも「路傍(みちばた)の流行歌(はやりうた)」(本紙第1…
三 続 二八そば
久々にそばの事を書こうと思ったのは、すばらしい論客百楽天氏と出会ったからである。二八そばの語源について私は値段(十六文=二×八)だと思っているが、百楽天氏は配合説(当初=そば粉二うどん粉八→後年=そば粉八うどん粉二)である。
しかしながら、その博識たるや半端ではない。私など到底足下に及ぶもので…
新潟市(旧巻町)所蔵の覗きからくり
覗きからくり『幽霊の継子いじめ』を持つ事で知られる旧巻町に新しく『八百屋お七』の屋台が完成し、実演も行われていると、磯田さんが確認してきたので紹介します。
左記は実演中の写真である。同時に録音も採ってこられたので聞いてみたら、曲節も歌詞も我々が歌っているのとは大分異なる。かつて酒席で…
神田明神・祇園三社と将門塚
「神田」と云う地名は全国にある。昔は諸国から新稲を伊勢神宮に奉納する習わしがあり、納める稲を植える稲田を「神田(かんだ)」とか「神田(みとしろ)」或いは「御田(みた)」と呼んでいた。東京の神田もまた同じ由来を持つ。そんな稲田の五穀豊穣を願うために大己貴命((おおなむちのみこと)大国主命)を祀ったのが、「…
随筆に見る江戸の珍商売(生業)
元禄時代(1688~1704)頃までは、上方(かみかた)が中心であった文化も、享保(1716~36)を過ぎる頃から徐々に江戸へ移り始める。それに伴い書かれたものも増え、幕末期に全盛となる。とりわけ当時の文化人が残した随筆の中には、今はない生業も数々ある。取り敢えず山東京伝の弟、京山の随筆『蜘…
江 戸 の 珍 商 売 (生 業)
六十六部(六部)・遍路・巡礼・千手観音・金比羅行人……
日本全国六十余州の霊場を巡り、書写した法華経を一部ずつ納めることを目的に巡礼する者を、六十六部または略して六部と言った。死語の冥福を祈って鉦を叩き、鈴を振り、厨子を背負って家々を廻り喜捨を求めた。実際にはどこへも行かず喜…
『我衣』が載せる 諸事初め
『我衣』は文化年間(1804~1817)頃、加東曳尾庵(かとうえびあん)南竹(1763~?)が著したもの。寛永(1624~)から宝暦(1751~1764)にかけての世態風俗を記した諸書からの抄出、文化年間の同種の風聞などを年代順に配列した随筆集(写本十九巻二十一冊)である。これが載せる諸事初めのうち関…
菊人形(きくにんぎよう)と活(いき)(生)人形
菊細工から菊人形への流れは比較的知られている。しかし、絡繰(からくり)人形・活(いき)(生)人形もまた菊人形へ合流した。その変遷を主に『武江年表』等によってたどる。(本紙107号、204号参照)
◎文化九年(1812)
・九月、巣鴨染井の植木屋にて、菊の花…
御 免 勧 化(ごめんのかんげ)
「御免勧化」については、清水晴風(1851~1913)の『街の姿』(活字本)が挿絵と共に簡単な説明を載せる。
《御免のかんけは町々の自新(身)番より駒形にごめんと書いたる札を借受(かりうけ)、戸毎に御免のかんけといふて銭を貰ふ。此の者等の御免のかんけの株とて売買なるものなりといふ》
…
柳亭種彦『正本製』に載る生業
江戸後期の戯作者・柳亭種彦(1783~1842)は合巻『偐紫田舎源氏』(1829~42刊)の著者として知られる。元々本所生まれの旗本であり、家禄は二百俵である。『正本製』は、文化十二年(1815)から天保二年(1831)に掛けて全十二編を刊行した(挿絵は国貞)。「正本」とは、原本の意味であり、ここでは…
神田明神境内に鎮座する祇園
牛頭天王三社(現三天王社)
藩政時代、江戸の街には「わいわい天王」と呼ばれる大道芸人が盛んに出没していた。天狗の面を被って子供を集め、「わいわい天王囃(はや)すがお好き。喧嘩(けんか)は嫌い仲良く遊べ」などと、唱えながら「牛頭天王(ごずてんのう)」と書かれたお札をばらまき、後で親…
江戸の楽しみ
覗きからくりの変遷
今時「覗(のぞ)きからくり」と云っても、大抵の人は知らないだろう。最後に演じられたのが、昭和四十年代(1965~74)後半と云われるから、すでに五十年近く経つ。知らない人が多いのもやむを得ない。しかしそれをいいことに、根拠のない俗説が蔓延(はびこ)っているから、…
『方言修行(むだしゆぎよう) 金(かね)の草鞋(わらじ)』(十返舎一九著)に見る
伊勢 相(あい)の山(やま) の物貰い
相の山は伊勢神宮の外宮と内宮の間にある小高い丘を云い、行楽地として知られていた。一立斎広重筆の『東海道風景図会』に、次のようにある。
「両宮(=外宮と内宮)のあはひ(間)にあるゆえに、…
秘伝『天狗通(てんぐつう)』
『天狗通』は寛政八年(1796)に刊行された手妻の種本である。先行するものとして本紙223号で紹介した『放下筌』(宝暦十四年=1764刊)がある。何れも大道芸危険術に取り入れられた実績がある。原文の儘紹介する。(□は判読不明)
①釜を鳴らす術 ②釜に煮湯(にえゆ)に入て熱からぬ術 ③大入道頭を出…
京都 糺(ただす)川(河)原の見世物
糺川原(河原)は加茂川と高野川の合流地にある三角州であり、下鴨神社の境内「糺の杜(もり)」の一角である。京都の遊興地と云えば四条河原が著名だが、ここも劣らず賑わっていた。
左図は、山東京伝の『糸桜本朝文粋』(文化七年=1810)が載せる「糺川原の図」である。ざっと見渡した…
『日本風俗畫大成』に見る
「門(かど)つけ」と「猿廻(さるまわ)し」
『日本風俗畫大成』は一九二九(昭和四)年に、中央美術社から出された。これの「第八 明治時代」は、明治時代の画家が描いた絵に、鏑木清方(1878~1972・日本画家)が解説を書いている。 中から「門つけ」と「猿廻し」を紹介する。
…
ユネスコ記憶遺産 山本作兵衞画・文
炭 鉱 記 録 画 ・ 文
皆さん周知のこととは思うが、五月二十五日、筑豊炭田で炭鉱夫をしていた山本作兵衞(1892.5~1984.12)氏の炭鉱記録画・文が、ユネスコの記憶遺産に登録された。日本の炭鉱労働者の記録が登録されたのは無論初めてのことである。
本紙は…
街頭演歌の元祖
添田 さつき
添田さつきは演歌の神様・添田唖蝉坊の長男知道(1902~80)のセカンドネームである。また大正時代に大ヒットしたヴァイオリン演歌『東京節』の作詞者でもある。元曲は、ヘンリ・クレイ・ワーク作曲の『ジョージア・マーチ』(『マーチ…
軽業
軽業は奈良時代に唐から伝わった散楽(さんがく)(雑芸能)を構成する百戯(曲芸、奇術、幻術等雑戯(ざつぎ)全般)の一つとしてである。
当初朝廷は雅楽寮(ががくりょう)内に「散楽戸(さんがくこ)」を設けて宮中で行われていた。『続日本紀』は、天平七年(735)に聖武天皇が、唐人による唐・新羅音楽の演奏及び弄槍の軽業芸を見た…
浅草奥山の賑わい
左図は『江戸名所図会』が画く幕末浅草浅草寺奥山の様子である。その頃は本堂の後にあった念仏堂(現在は駐車場)一帯は、奥山と呼ばれる娯楽センターになっていた。楊弓場の多いのには吃驚させられるが、外にも芝居小屋や芥子の助(ジャグラー)、松井源水(独楽廻し)などの大道芸人。この図の範囲外には、水茶屋や菜飯(なめし)茶…
祇園社と牛頭天王・スサノオ
「わいわい天王とは何ぞや」と思ったのが運の尽き?
何時の間にか牛頭天王とは何ぞや?に変化し取り憑かれたようである。しかし、矢っ張りわからない。
明治と共に、日本中の牛頭天王が、スサノオに取り替えられたが、祭りは「祇園祭」や「天王祭」のままも愉快である。
世に天皇の名をそのまま冠した…
放下筌(ほうかせん)に見る危険術
『放下筌』(平瀬輔世著・宝暦十四年=一七六四年刊)は手妻(=日本の手品)の種本である。この中のいくつかは「危険術」として大道芸人も人集めの手段として行っていた。
左図は危険術の中でも特に危険な「鉄火握りの術」と「鍋囓(なべかじ)りの術」を描いたものである。鍋囓りについては、「鍋釜を噛み砕き水に…
ぺ て ん 商 法
『新文化』誌第六号(昭和十三年七月一日発行=『江戸と東京』誌を昭和十三年一月号から一年足らずの間だけ改題した) に、「ぺてん商法(青山倭文二著)」が、掲載されている。当時実際に行われていた売(ばい)(=商売)の一つである。面白いので紹介する。
《松井源水が独楽を廻し、長井兵助が長刀をふり廻して、お立ち会…
大道芸通信総目録(三)
ー第151号から第220号までー
本紙も号を重ねるにつれ、内容を覚えているのが難しい。時には立ち止まって振り返って見ないと、何を書いたかわからない。 今回で三回目になるが、目録を出す所以(ゆえん)である。
第151号
・大道芸通信総目録(二) 第81号から第1…
越前万歳(えちぜんまんざい) と 覗絡繰(のぞきからくり) に見る
八百屋お七(やおやおひち)物語
三河万歳(みかわまんざい)に代表される正月の祝福芸としての万歳は、遠く平安時代の千秋万歳(せんずまんざい)に始まるとされる。これが鎌倉室町時代には公家や武家の手を離れ、乞食芸放浪芸となる。
しかしながら近…
日本大道芸・大道芸の会 創立十五周javascript:void(0)年記念
江戸・東京の大道芸 好評裡に終了
去る十月二十三日(土)に深川江戸資料館小劇場で行った、当会創立十五周年記念イベント「江戸・東京の大道芸」を好評裡に終えることが出来ました。諸般の事情から、地元烏山の地を離れて催した初めてのイベントでしたが、何とか乗…
江戸と東京 風俗野史
伊藤晴雨(1882~1961)と云えば「責めと縛り」 の絵師として著名だが、最後の浮世絵師とも呼ばれたように、江戸や明治東京の風俗画も沢山描いた。その集大成が『江戸と東京風俗野史』である。
《著者(=伊藤晴雨)は素(もと)より、感傷的、盲目的に江戸を賛美するものに非ず。真の江戸文化を賛美するものなり》と…
『風俗画報』が載せる雑業
江戸市中世渡り種(二十二)
・○○ 忘れたのか、名称・解説が書かれていないが『盲文画話(ももんがわ)』の載せる「竹馬(たけむま)きれ(布)売(うり)」と同じものである。「竹馬」とは布を運ぶ竹製の荷運び台のこと。当初は片荷を高くしたことから竹馬と呼ばれた。
・五月のぼり職 …
妖怪と見世物
古くは『信貴山縁起』や『鳥獣戯画』に見られるように現実世界にはあり得ないことを、願望も含め因果応報絵画に仕立てたりした。その過程で元来脇役であった鬼や妖怪が主役に躍り出ることもままあった。そのうちのいくつかは見世物となり、庶民の好奇心を大いに満足させた。
上図(図略)は『怪奇(かいき)談絵詞』(だんえ…
『風俗画報』が載せる雑業
江戸市中世渡り種(二十一)
・塗物木地職(ぬりものきじしよく) 大きなものでは箪笥(たんす)や水屋(みずや)(飾り棚)、小さなものではお膳やお椀に代表される漆器の木地(=漆を塗る直前まで)を作る職人。
木地師(職)が作った細工物に塗物師(ぬりものし) が漆を塗ることによって、…
枇杷葉湯は琵琶の若葉に肉桂(にっけい)などの香辛料を混ぜて煎(せん)じたものである。暑気払いに効果があるとして、端午(五月)の節句から八月十五日まで売り歩いた。
現在は衣替えをする六月から八月までが夏だが、旧暦では四~六月が夏、七~九月は秋である。年によって異なるが、今とは平均二ヶ月近くずれがある。
だ…