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zoom RSS 大道芸通信 第134号

<<   作成日時 : 2005/07/18 21:06   >>

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  大道芸絵巻 第二弾!

 江戸・東京の賑わい 開 催!


   日時 十月二十九日(土)
          十三時〜十五時三十分

   場所 烏山区民センター大ホール

演目 がまの油売り バナナの叩き売り 南京玉すだれ カッポレ すたすた坊主
浅利売り 納豆売り 飴売り 大原女 朝顔売り 辻占売り ほか多数


┌─────────────────────────
│   神田雑学大学で
│      実演とお喋りをします
│       http://www.kanda-zatsugaku.com/

│  こんど日本の大道芸について、簡単な紹介と実演を
│  することになりましたので、時間のある方は冷やか
│  しがてら、遊びに来てください。
│       (木戸銭無料!早者勝!)

│ 演題 江戸庶民の娯楽と大道芸

│ 日時 八月十二日(金)十八時〜二十時

│ 場所 ちよだボランティアセンター
│ (JR水道橋駅から白山通りを神保町方面へ約5分、
│   大正大学向かいの千代田区社会福祉協議会
│   3階 A会議室)
└─────────────────────────

(二面)
 『本朝世事談綺』(二)
 著者、菊岡沾凉(延宝八年〈一六八〇〉〜延享四年〈一七四七〉十月二十四日)は江戸の人飯束三悦の息子であったが、のち菊岡行尚の養子となり、菊岡姓を名乗る。神田に住み、表具師金属彫刻を業としていたが、一晶(〜宝永四年〈一七〇七〉四月。本名芳賀治貞。伊藤信徳の弟子。代表作、かざり木にならで年ふる柏かな『あら野』)門人となり俳諧を学ぶ。のち(内藤)露沾(〜享保十八年〈一七三八〉九月十四日。岩城平藩藩主内藤右京太夫義泰次男義英、のち政栄。西山宗因門弟)の弟子となり沾凉と号す。『江戸砂子』『続江戸砂子』
『諸国異人談』等著書多数。

・女前帯
 明暦、万治(一六五五〜一六六一)頃。京都祇園や清水辺の茶屋女たちが始めた。
 参詣客の多いときは、茶屋も大いに繁盛したから、店の女(=茶屋女)たちも目の廻るような忙しさであった。
 あまりの忙しさに、帯が解けたりすることが、ままあった。そんなときは慌てて結びなおしたが、後ろへ廻すほどの余裕はなかった(=通常、帯は前で結んで後ろへ廻す)。それでやむを得ず前に結んだまま、客の相手をした。 
 すると、それが反って粋に見えたのだろう。一人二人と真似するものが出、いつのまにか島原の傾城(=遊女)や茶屋の遊女たちも前で結ぶようになった。
 京の町屋や田舎の娘たちの間でも前結びが大いに流行ったが、御所や武家の奥方でそんな結び方をする人は、流石にいない。

・金糸烟
 慶長十年(一六〇五)に初めて南蛮国から種が輸入され、長崎の桜馬場植えた。
これが花山たばこである。次に吉野、丹波と続いた。
 最初は竹筒に入れてすっていた。これを廻し飲みする作法があったが、今は廃れた。中華では酒を酌み交わす様に似ているので、烟酒と云っている。
 たばこには四つの功がある。すなわち、お腹がすいたときに一服すると満腹感を味わえる。反対に満腹の時に吸えば、お腹が軽くなる。三番目の効能は、苛立っているときも気持ち穏やかになり、酒に酔っているときなどは逆に、酔いを覚ましてくれる。最後は気分が優れず鬱状態の時も、散らしてくれることである。
  最後に後水尾院御製歌 もしほやく(藻塩焼く)
    あま(海女)ならねども烟草
  なみよる人の
   しほ(塩)とこそなれ

・沢菴(=庵)漬
東海寺の開祖、沢菴和尚が漬け始めたからそう云う。

・一休納豆
 大徳寺真珠庵の納豆(=蒸大豆にはったい粉(=麦焦がし)と麹を加えて醗酵させたものを、塩水に漬けて重石を載せ熟成させる。これに香辛料を加えて乾したものが大徳寺納豆)は、一休和尚が始めた製納豆を豆豉と云っている。

・番椒
秀吉が朝鮮征伐を行った際に、初めて持ち帰ったという。
 或いは慶長十年に、たばこと一緒に南蛮から渡って来たとも云う。だから南蛮胡椒という。中華では番椒と云う。番は南蛮のことである。
中華では明(一三六七〜一七二三)末に初めて見たと云う。

・独芸
 寛文(一六六一〜六七三)、延宝(〜一六八一)頃神田多町藁屋次郎兵営と云うものが行っていたが、名人であった。

・人形遣
人形芝居も最初の頃は、西宮の傀儡師を呼んで舞わせていたが、今は江戸小平太というものが名人である。
 羅山文集にも、次のような話が載っている。
「鼓吹蛮琴で木偶の動きに合わせて弾く曲がある。余りに息がぴったりなので、人形が生きて動いているようであった。その人形を操っていたのが、江戸第一の傀儡師小平太である云々」と。
野郎間 江戸和泉太夫の芝居の中で野郎松勘兵衛が遣う人形は、頭が平たく色は青黒く下卑ている。この人遣い手の野郎松からとって「のろま人形」と云う。
…鈍い人のことを「のろま」と云うようになったのはこれからである。
おやま 小山次郎三郎という人は、女の人形をよく遣っている。この女人形を「おやま人形」と云うようになったのは、遊女や傾城のことを「おやま」と云うことから来ている。
出づかひ 辰松八郎兵衛が始めた人形の遣い方である。 人形遣いというものは元来、黒い帳の陰や黒頭巾などを被って、自分の姿を見せないようにしている。人形の動きにつれて、遣い手も同じ動きをしていることが観客の目に露わになることを
避けるためである。
 ところが辰松は、人形遣いの名人であったから、上下姿で観客の前に立ち、堂々と演じた。しかし、少しも見苦しいところはなかった。
 辰松幸助もまた八郎兵衛の後を継いで出づかいをした。現在は、大坂の藤井小三郎、近本九八、中村彦三郎等が出づかいをしている。

・泡斎念仏
鉦、太鼓、笛の音と共に激しく躍念仏を唱え、江戸の大路へ繰り出す一団がある。これが葛西念仏である。
別名泡齋と呼ぶのは、寛永(一六二四〜一六四四)頃、泡齋という気違坊主がいて、町々を奔り廻っていた。これを見た子供たちが集まって、「気違いよ、泡齋よ」
 と囃し立てた。
 以来いまでも気違いのことを泡齋と呼ぶ。この泡齋、囃されると興に乗り、人々の笑いを誘うような踊りをした。
 葛西念仏も定まった形はなく、己の心のままに踊り狂っているからこれと同じである。 泡齋坊が踊るのと同じだから泡斎念仏と呼ばれ、別名気違い念仏踊りとも云われる。

・鹿島躍
寛永頃、諸国に疫病が流行ったので、常陸国(茨城県)鹿島神宮の御輿を出して国々を廻り、厄難駆除を祈った。世間ではこれを鹿島躍と呼んで諸国に流行った。

・傾城
遊女を傾城というようになったのは寛文頃からである。
遊女は江口、神崎等の港で船を漕ぎ寄せるから、ながれの女、浮女などと云う。
 また平家が西海で滅んだとき、官女や宮女の多くは下関、門司、赤間が関の港にさまよった。しかし生活の術を知らないから、遊女となった。…傾城は遊女に限らず、全ての女に対して云う。…巨杓な者が思いついて、遊女を傾城と名付け流行らせたものか?

大道芸講習会 今後の予定
  ●第一三六回目
  八月二十五日(木)

  ●第一三七回目(臨時)
  九月十五日(木)

   時間・午後七時ー九時
  場所・烏山区民センター 大広間(二階)
  会費・一回五百円

編集雑記
七月一日は富士山の山開きである。東京でも富士山(塚)で山開きが始まる。私も毎年どこかの富士塚へ登るのを楽しみにしていたが、今年は忘れてしまった。なに高田富士ならまだ間に合う。

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