大道芸通信 第146号

香具師と乞胸

 今は舞台でしか演じられる事のない能や歌舞伎も含め、全ての芸能は大道に始まる。
 藩政時代、江戸の町では、浅草や両国に限らず、辻や寺社の空き地など、至る所で大道芸人が活躍していたことはよく知られる。しかし、香具師とそれ以外では、演じる目的がまるで異なる事を知る人は少ない。

 香具師は元来薬師であり薬を売る商人のことであった。だから藩政時代の風俗事典『守貞漫稿』(天保八年〈一八三七〉~〈一八五三〉嘉永六年著)も、「製薬を売るは、専らこの党とする由」と記す。ところが時代と共に細分化し、後には薬以外のものも売るようになったが、いずれにしても零細商人の集まりであることに変わりはない。
 そんな零細商人が、大店に負けないように人を集め、商品を売るために演じたのが香具師の芸である。だから芸では銭を取らずに、芸を終えたあとで、必ず何らかの商品を売って対価を得た。有名な「がまの油売り」にしても、芸を見せるのは人集めの手段であり、目的は集まった人へ「がまの油」を売る事にある。
 だから聴衆の興味を引くような言動を言っては、人集めの手段とした。例えば、何処にでもある棗に付加価値を付けるため、中に絡繰り人形が仕込んであると言ったりして聴衆の興味を引き、次の様に話を展開した。
「これから私が棗の中に仕込んである絡繰人形に、素晴らしい芸をさせるが、どんなに素晴らしいと思っても、投げ銭放り銭だけは止めてください。
 今でこそ私は皆さんの前で未熟な芸を見せて糊口の足しにしておりますが、元々町人でございます。ですから、乞食みたいに泥のついた銭をバタバタと拾い集めるような、みっともない真似はすることができません」
 と、あらかじめ「投げ銭」を牽制した。
「じゃあ、投げ銭を貰わなくて、なにを生業としているかというと……、これだ!」
 と、云って初めて「がま」を見せ、そこから話を自分の目的である「がまの油」を売るべく、方向転換するのである。同時に、「自分は、がまの油を売る商人であって、乞食ではない」という主張もしているのである。
これに対し、弾左右衛門配下の非人や猿回しなどが行っていた芸能は、芸自体が商品であったから、芸を見た人からは当然のように投げ銭を貰った。したがって、現在までの芸能につながるのはこちらの系統である。
元々弾左右衛門は、配下に放下や傀儡師など芸能に関するものを沢山抱えていた。しかし、次々に独立して弾左右衛門の手を離れ、最後まで残ったのは猿飼(廻し)だけである。
 もっとも、弾左右衛門は非人頭車善七を支配していたから、非人配下にあった乞胸を間接的に支配していたとは云えるが。
乞胸とは芸能乞食とでも呼んだらいいのだろう。投げ銭目当てに十二種類の芸能稼業を認められていた。則ち①綾取、②猿若、③江戸万才、④辻放下、⑤操り、⑥浄瑠璃⑦説教、⑧物真似、⑨仕方能、⑩物読み、⑪講釈、⑫辻勧進である。それがどんなものであったか今ではわからなくなったものも多いが、『守貞漫稿』は、次のように説明している。

 綾取とは、竹へ飾りを付けたものを投げたり受けたりするものである。当時(=『守貞漫稿』を著した天保八年〈一八三七〉~〈一八五三〉嘉永六年)は、すでに行われていなかったとある。
 しかし、これだけだとよくわからない。『人倫訓蒙図彙』(元禄三年〈一六九〇〉刊)の「文織」に、三つ四つの竹を持って、上下にあげおろす手品のことだとあり、挿絵が載っている。
 安来節でつかう銭太鼓(=竹の筒の中に寛永通報などを入れたもの。振ると音が出る)みたいなものや鎌、鞠をお手玉の様に扱っている絵である。
 文織も綾取も、説明を読む限り似ているし、挿絵は具体的である。現在も行われているジャグリングみたいなものだろう。
 なお、『嬉遊笑覧』(文政十三年〈一八三〇〉刊)にも次のようにある。
《あやおりは、こきりこにてする曲なり。『(人倫)訓蒙図彙』に、二つ三つ四つの竹を以て上下へあげおろす手品を云ふ也。其の意は、機を織るには、横の糸を通す時、竪の糸、上下をなす也。これ織り手の足のつかひやう也。今、此わざよく似たるを以て文織といふとある。今は、あやおり竹を略してあや竹といふ》

 次の「猿若」は、顔に化粧を施して芝居をするものである。三座(=中村座、市村座、森田座)の芝居をまねたものだが、三座の役者は乞胸ではない。当時(天保八年~嘉永六年)両国広小路で、芝居役者の扮装をしているものがあったが、これが乞胸の猿若である、と『守貞漫稿』は説明している。
 その当時は説明を要しないほど猿若は知られていたのだろうが、今、猿若と云われてすぐにわかる人は滅多にない。
 猿若とは、江戸歌舞伎の祖とされる猿若勘三郎の名前に由来する。京都に生まれた初代猿若勘三郎は、寛永元年(一六二四)江戸へ下り、中橋南地で興行した。これが猿若座(=後中村座)のはじまりであり、江戸歌舞伎の始まりとされる。
 その後、禰宜町を経て慶安四年(一六五一)に堺町へ移ったとき、猿若の本姓中村を取って中村座と改称した。天保十二年(一八四一)には水野忠邦によって、浅草猿若町へ強制移転させられたが現在までその血脈を伝えている。
 なお、阿国歌舞伎時代には猿若は、道化役のことであった。その道化役の猿若を主人公に狂言所作事をお家芸としたのが猿若座である。またその脚本は現存最古の歌舞伎脚本と云われるが、この猿若の真似をしたのが乞胸の猿若である。『人倫訓蒙図彙』にも、《一人狂言なり。ある書に云、
滑稽優人と注す。こっけいは人を笑する事をいふ。今の猿若是なり。優人は狂言師也》とあるとおり、全て一人で演じたから一人狂言とも呼ばれたのが、乞胸の猿若である。

 つづく「江戸万歳」について『守貞漫稿』は、《三河万歳のまねいたし、年中物貰ひ致し候者。当時これなし》と、極めて素っ気ない。素っ気なくとも、元となった三河万歳は正月の風物として、江戸の町に欠かせない存在であった。その歴史も徳川家康の江戸下向と共にあると云われるほど旧く、江戸初期から盛んであった。
 平安時代に宮中で行われていた頃は「千秋万歳」と呼ばれていた万歳も、後に民間へ出回るようになると、大和や美濃、三河と云うように、国名を付けて呼ばれるようになった。それだけではない。大和万歳は京へ、美濃万歳は中国へというように出身によって出稼ぎ場所も決められるようになった。
 江戸へ来たのは三河万歳である。徳川氏が三河出身と云うこともあって、関東圏内では通行手形も不要とされるほど優遇されたと聞く。
毎年新年になると、太夫と才蔵二人が一組となって江戸へ来た。尤も才蔵の方は経費の都合上、暮の日本橋南詰に立った才蔵市(『江戸名所図会』巻之一/三河万歳才蔵市)であつらえた。房州(千葉)出身のものが多かったが、建前は三河から来たことになっていた。
 大名や旗本へ呼ばれたり訪れたりして、太夫は鼓を打ち、新年のめでたい歌を歌い舞を舞った。その舞がたけなわになった頃、それまで控えていた才蔵が、やおら立ち上がり、滑稽な仕草をしたり素頓狂なことを云って笑わせ、一挙に座を盛り上げた。
《此の才蔵の技倆は自ずから別なり。先ず才蔵は遠国山出しの容貌を備へ愚かに見へて痴鈍ならず、好色に見へて好色ならず、武骨中に愛嬌を含み、飽くまで質朴なるをよしとす。
 去れば旗本屋敷の女中等、恐れ憎みても面白く、その戯れを興として万歳才蔵の来るを楽しむ。是才蔵の技倆による。故に其の以前は才蔵市ありて、万歳の太夫、才蔵を選び抱へしとなり。但し、門万歳とて、町家の軒下へ来たり銭を乞ひあるく万歳は諸家の奥へ上がる万歳とは別なり》(『江戸府内絵本風俗往来』明治三十八年〈一九〇五〉刊)
 最近のことは知らないが、私が子供の頃は徳川家康と云えば狸親父に決まっており、とにかく人気がなかった。笑顔を見せるなぞ思いもよらず、何時もぶすっとしていたイメージがある。
そんな家康が、ある日突然脱皮して「山出しは銭になる」ことに目覚めたのが、三河万才と思えばいい。
乞胸が行っていた「江戸万歳」は勿論、《門万歳とて、町屋の軒下へ来たり銭を乞ひ歩く万歳》のほうである。
 三河万歳のように年に一度なら歓迎もされようが、のべつくまなく来られたら、たまったものではない。『守貞漫稿』が冷たく突き放したのも宜なるかな。嗚呼!  (つづく)
 

大道芸講習会 今後の予定

●第一五四回目
八月二十四日(木)

●第一五五回目
九月二十一日(木)
 
ONLY・1、No・1を目指す 伝承会 

○第三回 八月三日(水)

○第四回 九月七日(木)


時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
会費・一回五百円

編集雑記
本紙が出るときには終わっているからはっきりするが、今月十三日から四日間、靖国神社で御霊まつりが行われる。ここに例年「見世物小屋」と「お化け屋敷」が出る。今年も出るか気になったので、祭りの数日前、様子を見に出かけたら、丁度丸太で小屋を組んでいる最中であった。それで安心した。(7/8)

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