大道芸通信 第312号

画像画像バンソロ(算レ盤)

 昨年逝去された元大締(大〆)師・藤本康男(甲南) 氏は、「バンソロ(算レ盤=速算術の本)」を打って(=商売)いた。今は絶滅した大締の話を、本紙に連載(98~102号、210~241号)したものを参考に、生前本人から取材したが書き漏らしていたものや、その後調べてわかったことを補足しながら、書いておきたい。以前のものと重複することも承知で、一人の大〆師の生き様を紹介してみる。(紙面の都合上もあって概要であることを了承して貰いたい)

(小生の質問)抑も(そもそ )どういうきっかけで「バンソロ(=速算術の本を売る)」をやることになったのですか。
(以下、藤本氏が述べたもの)
 元々自分は海軍兵であったが、一九四四年(昭和十九)に、結核を患い手術した。それをきっかけに、傷痍軍人(しよういぐんじん)として帰郷し暫く静養していたが、退屈なのと生活のためもあって農協へ勤め始めた。終戦の日(一九四五年八月十五日)は、偶(たま)々(たま)休んだので戦争が終ったことを知らずにいた。
 明くる日、いつものように出勤すると、昨日まで松根油(=松の根元に傷を付け、滲み出す松ヤニを集めガソリン代用にした)を採るために派遣されていた海軍将校が姿を消していた。 ほかの人はともかく、儂は海軍同士として親近感を覚えていたが、誰も行き先を知らんかった。
 それだけが理由ではないが、以来仕事に行かず家でぶらぶらしていた。しかし、何時までもそうしている訳にはいかなかった。すぐ下の弟が復員してきたのに加え、母や妹、まだ小学生だった二人の弟に自分も加え、家族六人が生きていく為にゃ稼がないかんかった。それで闇(やみ)屋(や)を始めた。
 ところがこれが警察との追いかけっこであり、三遍ほど捕まり都度罰金を喰らった。その後四回目に捕まったときは、罰金じゃ済まなくなり懲役を喰らうことになってしもうた。しかしそんなことになったら、生活が出来ん。テキヤの親分に泣きついたら、検事と馴染みであったため、「今後闇屋をやらせない」ことを条件に釈放された。一九四八年(昭和二十三)、二十四歳の時である。こうしてテキヤの若い衆(子分)になった儂は、高市(たかまち)(縁日)に出て露天商を始めた。平日(ひらび)(平日)には、親分の兄弟分の承諾を貰って、街中で十円均一商を始めた。
 処が狭い町なので、毎日売(ばい)することが出来ず、祭を探して方々廻った。
今なら車があるからどこにでも簡単に行けるが、その頃は自転車だけが運搬手段であった。鉄道が走っている場所は、チッキ(=乗車目的地まで荷物を一緒に運んで貰う制度。今はない)を利用することも出来たが、そうでない場所は皆自転車で運んだ。
 信じられないかも知れないが、一台の自転車に段ボール箱を五つぐらい積んだ。東城(広島県北東部にあった町)から岡山県の津山へ出て、一日祭を(しごと )こなし、岡山(市)まで行ったことがある。更に一泊して尾道(市)へ行き、明くる日は笠岡(市)へ出た。
 夜走るから、発電機のタイヤと接する部分の山が潰れて滑るようになり、電気が点かず真っ暗闇の中を必死に漕いだものである。
 当時の道路は舗装してないから、雨が降ればドロドロになる半面、晴れたら埃まぶれのガタガタ道だから、ようパンクした。今でも家にあると思うが、パンク道具を何時も積んでいた。
その後、バンソロを打ち(=商売)始めた。きっかけは鳥
取へ行ったときのことじゃ。十円均一商品を売りよる隣にバンソロがいた。
 儂は学校時分、算数は全部百点。海軍に入ったときも、新兵受験の際も、算数は三十分(制限時間一時間)で出来た。それぐらい算数が好きだった。
だからバンソロ見ているうちに、何時も数字が同じであることに気付いた(タネがわかった)。しかし、足し算だけは如何しても(タネが)わからんかった。
 それでも二日目にはわかった。その途端、(バンソロを)やりたくなった。すぐに、「教えてくれっ!」ちゅうたら、
「だめっ」といわれた。
 それでも、「三ヶ月ぐらい修行したら(=黙って練習したら)、親爺に話をしてやる」といってくれた。
 必死に覚えたら、三ヶ月後、親分同士が兄弟分になってくれ、無事弟子になることが出来た。そこで十円均一辞めてバンソロ始めたが、独立するまで三ヶ月かかった(普通の人は一ヶ月半ぐらい)。
 三ヶ月目(昭和二十八年か九年頃)の六月三日、境港で初めて一人でやってみたら、三冊売れ三百円になった。その足で隠岐へ渡った。六月五日に祭があったからである。
 それを最後に独立し、以降は一人でやるようになった。
 角帽(当時大学生の象徴であった)被って黒板立てて、次々数字を並べて書いた。客に半分いわせ、半分は自分で書いた。
兎に角、早く書くこと。一瞬でも手が止まったら、「何かゴト(=仕掛け)があるんじゃあなかろうか」と、疑われてしまうからである。
 八月末、やっと年季が明けました。わずか四ヶ月でしたが、通常と同様、師匠から祝いとして新しい黒板と速算術の本を百冊いただきました。 こうして晴れて家族の待つ家に帰りました。家には、母親と中学一年生の妹、及び二歳になる長男が待っていてくれました。昭和二十八年九月のことです。
 明日から、いよいよ大〆師として一本立ちするかと思うと、うれしい反面緊張もしました。この後私は十五年間に亘り大〆師を続けましたが、こうして第一歩を踏み出しました。
 大〆師は広い場所を必要としますから、祭りや高市でも人出の多い道路などは与えられません。そこは「人売(じんばい)」や「コロビ」などの人たちが商売するところだからです。
 幸いその頃は車が殆ど通らず、広場もたくさんありました。大〆師用にはそんな広場が宛がわれました。また大〆師は香具師仲間の親分同様に扱われていました。だから、私がデビューした当初は先輩の大〆師から、「よー、いよいよ親分になったか」と、からかわれたりしました。しかし私としては、自転車に重い荷物を積んで悪路を運ぶことがなくなったことを何より喜びました。
 小さな黒板一つと販売用の本二百冊ほどを持って、好きな列車で日本中何処にでも行かれることが嬉しくてたまりませんでした。生活も少しは楽になるだろうと、それまで以上に熱心に商売をしました。しかし実際には、戦後の世相の移り変わりが激しく、残念ながら思ったほど生活の向上は得られませんでしたが。それでも、出発時点では夢も希望もありました。初めに挨拶がてら親分の所へ報告に行きました。親分は江草さんと云いましたが、稼業上の家名は、二代目中国大阪屋政八一家江草信雄で、私はその若い者で藤本康男と云うことになります。
 これから先は一人で家名を背負って全国を歩き廻りますので、仁義を切る事も出来なくてはなりません。
戦後八年位経っていますから、日常的に切る事はありませんでした。それでも改まった席や大〆師同志が集まった場所では行っておりました。一般社会での自己紹介に当たります。
 また大〆師の場所は高市、平日を問わず人通りの多い広場さえあれば、何処ででも出来ました。今みたいに車は走っていませんから、広ければ道路でも大丈夫でした。ただバンソロには女性は集まってくれませんでした。
子供も百円という小遣いを持っていない時代です。一番の客は高校生以上五十歳ぐらいまでの男性サラリーマンです。失礼な云い方をすればターゲットですが、実際の経験からそう云うことが出来ます。
 天候さえ良ければ、人口十万人以上の都市であれば何処ででも商売できました。こうして渥美清さん演じる寅さん同様、私の寅さん人生が始まりました。
 毎日祭があれば楽じゃったろうが、日に二回、場合によっては一回の商売であった。
 その点、平日はよかったが、一人でやるには勇気が要った。黒板組むまでが特に嫌であった。不安、恥ずかしい、
警察が来たら困る。ということではなく、何となくおっくうであった。だから、なるべく「一緒に行こうや」と、仲間を誘うた。
 一緒に行くと(手取りが)半分になるが、やっぱり一人よりええ。喋りだしてしまえばどうちゅうことないが、ついつい悪い方へ考えてしまう。
 最初の二、三人集まるまでが特に嫌じゃった。しかし、生活かかっちょるけえ、やらざるをえん。嫌ちゅうとれん。米代がなくなると、地元でもやらんといけん。これが何より辛かった。高市があっても、交通費がなけりゃ行くことも出来ん。嫌じゃったがしょうがない。やるしかない。
 だからちゅうて、闇(やみ)雲(くも)に喋りゃあええちゅうもんでもない。悠然と構えて、売るための喋りをせんと、まるで売れん。こつを掴んでしまやどうちゅうことないが、ようけ売れるか売れんかは、喋り方一つで決まる。
 全く零ちゅうことはなかったが、最高は七十八人へ売ったことがある。
 友達の最高は、百四人。百人売るんが夢じゃいいよったが、九十七とか八とか売りよって、最後に百四売って喜んどった。
 徳島の阿波踊りへ行ったとも、ほかの人と二人で組んだことがある。その時はお金がなくて、全部で九十六冊しか持ってなかった。それで儂が人を集めて相棒が売るようにしたら、九十六冊皆売れた。
 それで売り上げを持って儂が駅へ走り、代金引換で商品(ねた)を受け取った(当時は、駅留め貨物を代金引換で受け取る方法があった)。その間に二回目の売を初めて貰ったが、今度は九十一冊止まりであった。
一人で五十冊位はちょいちょい売った(一冊六十円。総売上三千円。原価率一~二割。昭和三十年頃。大卒初任給七~八千円)。
少し後だが、正月に岡山で売ったら、三が日で七~八万円(一冊百円)になったことがある。処がその頃(昭和三十年代末)をピークに四十年代に入ると電卓が普及しはじめ、値段も下がった。結果、みるみる売れ行きが落ち駄目になった。
昭和四十二年(一九六七)六月、足かけ十五年続けた香具師を廃業しました。幸い紹介してくれる人があり、デパートで実演販売をするようになりました。前年まで大道で行っていた啖呵売とは矢張り違いがありましたが、幸いすぐに慣れました。

 大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第三〇八回目 二月十四日(水(すい))

●第三〇九回目 三月十四日(水(すい))

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
バンソロという商売が成り立ったのは、娯楽が少なかったからだろうか。
 今なら、詐欺だ、インチキだ、金返せとなること疑いなし。香具師の売る物に碌な物がないことは、誰もが知っていた。知っていながら何度も騙された。しかも大道で、一度に何十人何百人という人が、同時にである。その場では「買わなきゃ損だ」と飛びつき、家に帰ると「何でこんな物買ったんだろう」と後悔する。それでも話が面白いから、釣込まれ同じ手にかかった。



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