大道芸通信 第316号

五月三日(木祝)に、深川江戸資料館との共催で行った標記イベントは、盛況のうちに終えることができた。これも皆様方のご支援の賜と、心より感謝します。
当日、一番心配であった天気も味方してくれ、朝まで降っていた雨も九時過ぎにはあがり、出かけるには申し分のない空模様になったのは幸甚であった。それもあってか、早い段階からお客様も詰めかけ、開場を早めたほどである。
開演後も下町だからなのか珍しいからなのか、はじめから盛り上がった。とりわけ招待した小学生や自ら入場料を支払った中高生が熱心だったのは感動的でさえあった。
今回の催しに際し、何より心配したのは お客様集めであった。地の利のない当会だけでは集客には自信がなく、春秋の彼岸前後のイベントでお世話になっている「深川江戸資料館」に共催して貰えて本当によかった。とりわけ同館の力添えで、地域の小学生親子を招待できたこと。高校生以下を百円に押さえたのもよかった。
日本の大道芸など見たこと聞いたことのない親や子供たちへ、「日本にもこんな素晴らしいものがある(あった?)」と、知ってもらえるだけでもいいからある。
結果は想定以上であった。後ろの方で見ていた人からの意見だが、二時間半という長丁場であったにも拘わらず、休憩時間以降も子供を含め誰一人帰らなかったと聞いたからである。嬉しさとホッとしたのが半々。
今回は深川江戸資料館の方でアンケートを取ったが、それを貰ったので紹介する。 はじめに資料館の把握した観客総数は、招待客を含め百七十九名(立ち見席を含めた定員二百三十名の約八割)ということである。
これに対し、回収できたアンケート数は六十一通、入場者の三割である。これが多いか少ないかは読者の判断に任せるとして、外にもメールで意見を貰った人もあるからもう少し増える。 以下、結果を報告する。
◎入場者の年齢構成
十二歳以下 二名
十三~十八歳 〇名
十九~二十九歳 〇名
三十~三十九歳 四名
四十~四十九歳 九名
五十~五十九歳 六名
六十~六十九歳 十四名
七十歳以上 三十二名
◎性別
女性 三十名
男性 二十一名
不明 十名
◎居住地
江東区 六名
東京都 三十八名
その他 十七名
◎催しを何で知ったか
チラシ 十一名
ポスター 一名
情報紙KOTO 一名
新聞雑誌 五名
ホームページ 三名
友人知人 十名 出演者 二十九名
その他 四名
◎入場料金について
高い 二名
適当 四十八名
安い 九名
◎公演内容について
満足 三十九名
やや満足 十三名
やや不満 〇名
不満 〇名
◎スタッフの対応について
満足 三十八名
やや満足 十三名
やや不満 二名
不満 一名
◎印象に残った演目
○物売り
①金魚売り 二十四名
②かりんと売り 二十一名
③あさり売り 十九名 ④納豆売り 十五名
⑤糊売り 十四名 ⑤よかよか飴売り 十四名
○次苗売り 十三名
○大道芸
①バナナの叩売り四十九名
②南京玉すだれ三十六名
③がまの油売り三十四名
④沖縄三線 三十三名
⑤女霊媒師 二十七名
⑥ヴァイオリン演歌二十三名
○次虚無僧尺八 二十一名
◎今後について
是非来たい 四十六名
わからない 八名
来ない 〇名
◎ご意見ご感想
・解説や冊子があると嬉しい
(有料でも買います)(埼玉・女40代)
・小学校などでも公演して欲しい(江東・女40代)
・独楽や水芸、浮かれの蝶等手妻(日本手品)が見たい(神奈川・女40代)
・日本人の身体に残っている文化を紹介して欲しい(文京・女・40代)
・あっと言う間に時間が過ぎました。とてもすばらしかったです。
こどもが生き生きと観覧していて、目を輝かせていた。
私は後に座っておりましたが、未就学から小学低学年のお子さんが非常に喜んで立ち上がったり通路に動いて観て、保護者に注意されてされながら、二時間半と長時間にも関わらず飽きもせず特にバナナ売り。こどもにとっては、はじめての経験だったのでしょうね、とてものりのりでした。
あとは、どうしたら、そのこども達が、観るのではなく、演じてみたいなぁっと興味を持ってもらえるだろうか、と考えながら拝見していました(江東・男40代)
・日本の話芸の広さを楽しんだ。日本人形の頭をポンポン叩いて口上するような、昭和まで残っていた啖呵売もみたい(埼玉・女50代)
・時間を短縮すれば子供も楽しめると思う(神奈川・女50代)
・珍しくてよかった(千葉・男60代)
・プログラムが少々見にくく感じた(世田谷・女60代)
・とても楽しめたが、もう少し演目の説明があった方がわかりやすかった(太田・女60代)
・会場と観客が一緒になって楽しかった(新宿・女70代以上)
・外にどんなものがあるのかわからない(江東・男70代以上)
・物売りの方々の発生は大きく、はつらつとして艶があって素晴らしかった(千葉・男70)
・後半になる程盛り上がって、大道芸の楽しさを実感した(神奈川・男70代以上)
・大変有意義、素晴らしかった。ありがとう(足立・男70代)
◎今後見たい演目
・独楽、水芸、蝶等手妻
・いたち女、ろくろ首、とんがらし売り等
・とんがらし売り、かっぽれ
・首かけ人形芝居、大黒舞
・覗きからくり
以上である。今回、意見を述べた人が少ないのは、大道芸自体を知らない人が増えたからだろうか。それ故に、説明や解説が欲しいことは承知している。だから春秋のイベントでは解説を加えている。
今回は舞台だからそれはまずいだろう。舞台や映画で売っているような解説書を用意する予定であったが、諸般の事情でできなかった。結果が、「わかりにくい」というお叱りになった。深く反省する。
わいわい天王・牛頭天王②
そんなときに出されたのが、『神祇官事務局達』である。神職たちは僧侶支配脱却の好機到来とばかり、私憤も交え一斉に報復を始めた。新政府の威光を笠に廃仏毀釈を行ったのも、僧侶に対する神職たちの積年の思いが増幅させたのである。
全国で廃仏毀釈が行われ、犠牲第一号となったのが、比叡山延暦寺の鎮守・日吉山王社である。比叡山の神、「日吉大神(ひよしのおおかみ)」は延暦寺が創建される以前から存在した比叡山を神体とする神であった。これを延暦寺の鎮守にしたのは、最澄である。
伝教大師最澄は、唐の「天台山国清寺」で修行し、日本へ天台宗を伝えたことはよく知られている。その国清寺では守護神として「山王元弼(さんのうげんひつ)真君(しんくん)」を祀っていた。最澄はそれを真似て、「日吉大神」を「延暦寺」の守護神に改めた。以来「日吉大神」を「山王権現」とも称するようになった。
「権現」とは、本地垂迹説に基づき、日本の神は仏が仮装(ばけ)た姿(=権現)とされる。この言い立てが、『神祇官事務局達』の「某権現或ハ牛頭天王之類」に抵触したからたまらない。不名誉な廃仏毀釈犠牲第一号とされたのである。
慶応四年四月一日、武装した神威隊(=神職出身の志士が結成した組織)一行百余人が日吉社へ押しかけ本殿の鍵を渡すよう要求した。三月二十八日に出された『神祇官事務局達』を受けての行動とされる。然し乍ら、手続き的にも『通達』は、未だ比叡山には届いていなかった。何の前触れもなく突然訪れた闖入者に、比叡山の方では戸惑いを隠せなかった。
当然要求を拒否したところ、押しかけた一行は実力行使にでた。神殿に上り鍵を壊し、神体として安置されてあった仏像・仏具を放り出し、破壊し積み上げて火を付けた。更には「真榊(まさかき)」と称するものを持ち込み、新しく神体とした。
日吉社は本殿以下七社からなっているが、総てに対して同様の破壊行為がなされた。公式に報告さられただけでも、焼き捨てられた仏像・仏具・教典は百二十四点。ほかに金具類四十八点が強奪されたとされる。こうして日吉山王社は延暦寺支配を断ち切り、強引に独立したのである。
興福寺では社僧が全員還俗し、春日大社へ移ったため、廃寺となるところであった。五重塔が二十五円で民間に払い下げられたのもこのときである(明治四年)。購入者は金具を取るために焼却するつもりあったが、類焼を恐れた近隣の反対にあい、かろうじて残った。
石清水八幡宮は、八幡大菩薩(=仏)を八幡大神(=神)に改め、今後は神社として存続することを許された。それに伴い神前に供える供物も精進から魚介に改めた。社僧は復飾して神職となった。
ほかでも様々なトラブルはあったが、多くの寺社は神仏分離をすることによって、存続を赦された。ところが一人、牛頭天王だけは存続どころか存在そのものを否定されることとなった。維新政府が正式には「天子」や「帝」( みかど )、私的には「御所さん(ごつさん)」「玉」(ぎよく)と呼んでいた人を、「天皇」と呼ばせることに決めたため、牛頭天王は天皇の名を僭称(せんしよう)する不敬の輩へと転落させられたからである。
これに伴い、牛頭天王を本尊とする祇園社や天王社は、全て「スサノオ」を神体とする神社へと改称させられた。京都の「祇園感神院」(「感神院祇園社」)も、寺院はすべて取り壊されて円山公園にされ、祇園社部分だけを「八坂社」と改称した。(続く)
大道芸の会会員募集
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に覚えませんか。練習日は左記の通りです。
●第三一三回目 六月十三日(水(すい))
●第三一四回目 七月十一日(水(すい))予定
時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)
また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 場所(随時)
開催日はHP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)や当 蘭で通知します
編集雑記
「にほんの大道芸と物売り」も成功裡に終わってホッとした。同時にドッと疲れも出た。しかし、そうそう休んでもおられないようである。
三回目も是非やって欲しいと頼まれたからである。構想はまだ白紙だが、やるからにはちゃんとしたものにしたい。早くとも二年、場合によっては三年かかるだろうが、やることになりそうである。ただ一つの心配は、小生も含め皆の体力がそれまで持つかである。
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