大道芸通信 第319号

画像画像『東都歳事記』が載せる「夏の生業」

藩政時代の夏と現在の夏では感覚が異なる。今年のようにめちゃくちゃ暑いのを除いても、季節も暦も思った以上にずれがある。言うまでもないが、藩政時代の夏は「四・五・六月」である。これに対し現在は、六・七・八月が夏である。太陰暦(旧暦)と太陽暦(新暦)の違いだから、暦ほど季節に違いはないが、違うものも多い。
 右上で「虫」を売っている屋台や利根川鯉料理店を挟んで「心太(ところてん)」を突いている振り売りや水まきをしている小僧は、夏の景色である。

(配達業? 不知) しかし、水まき小僧の前を歩いている、荷札のようなものを附けた脚付籠を背負い、手にも荷札付きの荷物を持っている男は、よくわからない。

(富士講)  編み笠を持ち杖を突いている四人は富士講信者である。六月一日の山開き(現在は七月一日)に合わせ富士山へ登ろうというのである。 当時富士山は女人禁制であったから、女性姿が見えたら同じ富士山でも富士塚の方である。何れにしろ、当時江戸には富士講の数が八百八講程もあったと言われる程盛んであった。

(水菓子屋) 西瓜を切っている男の店は水菓子屋(果物屋)である。
ラグビーボールみたいな形をしているのは「瓜」であり、今なら「○○メロン」と呼ばれるであろう。稲荷神社の宝玉みたいな形は「桃」である。

(水まき) 褌一丁で桶を担いでいる男の桶から水が出ているのは、漏れているのではない。町内から頼まれて、埃よ(ほこり )けの水を撒いているのである。また冷却効果もあった。

(可愛がって) 全財産を背負い杖を突いている媼である。年の頃は六十過ぎ。今の六十歳は、もっと若々しいが、当時の六十歳は立派なお婆さんである。(童謡の『村の船頭さん』「村の渡しの船頭さんは 今年六十のお爺さん」で始まる)「可愛がって」といいながら、鼻下長族のおじさんのそばへ寄っていくと、大抵銭だけ恵んで逃げ出す。それが目的だから構わないが、中には物好きもいたようである。

(不知 芸人と医者か?) 単なる立ち話かも知れないが、左側の坊主頭はえらそうだから医者だろう。

(玩具屋・大坂屋) 真ん中の二階建楼門の前に立つ幟に「牛頭天王」とあるから、「天王祭」或いは「祇園祭」の時の玩具飾りである。牛頭天王は元来インドの祇園精舎の守護神である。これが日本へ来たのは、天武天皇の時代(672~687)であり、広島県福山市の「疫隈国社」( えのくまのくにつやしろ )(明治以降素盞(すさの)鳴(お)神社)へ降り立ったとされる。
 その後、明石浦や、姫路に足跡を残しつつ、最終的に京都へ落ち着く。四条通の突き当たりにある祇園社(現八坂神社)がそうである。処が何故か祇園社は、それを認めようとせず、現在地発祥を無理矢理こじつけている。(詳しくは以前『民俗と風俗』誌へ書いたので略す)

(わいわい天王) 天狗の面を着けているのはご存じ「わいわい天王」である。本紙139号外何度も書いたので詳細は省くが、「わいわい天王はやすがお好き献花は嫌い仲良く遊べ云々」といいながら「牛頭天王」のお札を蒔いていた。これも祇園祭に合わせ夏によくきた。

(〈冷〉水売り) 当時水売りには二種類あった。生活用の水売りと嗜好品としての水売り(冷水売り)である。共に四文だが、生活用は「一荷」単位、嗜好用は「一碗」単位である。生活の方は、江戸城の外濠辰口から余水を汲み船で運んだ。一方嗜好用は、井戸水へ甘味を着け白玉団子などを浮かべ、真鍮製の碗に入れて売った。「ぬるま湯を○○で売る暑いこと」の川柳が残るように、冷たいのは真鍮製の入れ物の方で、冷水の方はぬるま湯のようになっていることが多かった。それでも売れたのは、日射病〈熱中症〉へならないためにも水分や甘味、塩分が欠かせなかったからである。右の水売りは「どうでえ 旨いだろう」といっているような表情をして居るではないか。お客の方もまんざらではなく、満足したような顔をして飲んでいる。思いの外冷たかったのか喉が渇いていたのだろう。共に満足している様子が見て取れる。

(按摩)
「あんま~ 上下(かみしも)十六文~ ピー」と笛を吹きながら、江戸の按摩は街中を流して行た。これを「振り按摩」と呼んだ。《振りは得意に往かず、路上を巡り、何家にても需めに応ずるを、諸賈又これに準じて振り売りと云ふに同じ。また京坂ふりあんまは夜陰のみ巡り、江戸は昼夜とも巡る》(『守貞謾稿』)

(定斉屋) 元々東海道草津宿の隣にある梅木村が発祥であり、和中散を製造する店の名前であった。『東海道名所図会』は次のように書く。
《梅木(割註)本名六地蔵村なり。ここに和中散の薬店三軒許あり。是齊を本家といふ(中略)(割註)ここに元和(1615~24)の頃、梅の木ありて其の木陰にて和中散を製し、旅人に賈ふ(あきな )本家をぜさい(是斉)といふ。其の初めは織田氏と号して、元和元年医師半井卜養が女を娶って、和中散小児薬の奇妙丸等の薬方を授かり、永く此の家に商ふ》
つまり、梅木村には和中散の店が三軒ある。内の一軒「是斉」が本家である。
 その後三、四十年の間に屋号が薬名に変化しただけでなく、販売する店も増えている。流石に同名の「是齊」は避け「定齋」等、音の似た薬名にした。消暑薬としての効果を現すため、販売人は夏でも笠を被らず日の当たる側を歩いた。後には、売り声は立てず担い箱の抽(ひき)斗(だし)の鐶(かん)をガチャガチャ鳴らしながら歩き、それが定斉屋の象徴であった。

(天麩羅見世〈屋台〉) 天(てん)麩(ぷ)羅(ら)は葡(ぽ)萄(ると)牙(がる)語のtemporas(=齋(いみ)(忌)時)やtempero(=調味料)、或いは西班牙語のtemplo(=鳥獣の肉を禁じ、魚肉の揚物を食べる日)とも云われるが、本当の処はわからない。 「天麩羅」と云う漢字は、戯作者の山東京伝が考えたとされ、「天」が「天竺」、「麩」が「小麦粉」、「羅」が「薄い衣」とされる。天竺浪人が売る小麦粉の薄物という意味で、主に江戸の天麩羅を指した。 これに対し、西日本では魚肉のすり身を味付けし、形を整えて油で揚げたもの(=関東でいう薩摩揚)のことで、スペイン語の意味に近い。
 一方、関東と同じく魚介や野菜に衣を着けて揚げたものも「天ぷら」という。なお江戸では魚介類を揚げたものに限り「天麩羅」と呼び、野菜を揚げたものは「精進揚」と呼んでいた。
最近は「高級天麩羅」「お座敷天麩羅」等贅沢なものも珍しくないが、江戸の天麩羅は、屋台で食べるものであった。「天麩羅の 店に筮(めどき)(=竹串)を 立てておき」という川柳があるように、長い筮を突き立てて食べた(串カツに似るが串カツは揚げる前に串を刺す)。竹串を筮と云ったのは、占いで使う筮=(筮(ぜい)竹(ちく))に似ているからである。

大道芸の会会員募集 
「南京玉すだれ」や「がまの膏売り」など、日本庶民の伝統文化「大道芸」を一緒に伝承しませんか。練習日は左記の通りです。
●第三一六回目 九月十二日(水(すい))

●第三一七回目 十月十日(水(すい))予定

時間・午後七時ー九時
場所・烏山区民センター 大広間(二階)

 また、歴史や時代背景を学び、或いは技術を向上させたい人のために、学習会や伝承会も行っています。
●日時 ・場所(随時)

 随時HP掲示板(ほーむぺーじけいじばん)等で通知

編集雑記
今年の夏は何故か忙しい。自分で荷物が運べんようになったら実技は引退することを決めていた。なのに、何故か引っ張り出されて扱き使われる。都度誰かに荷物運びをして貰わにゃならん。それが苦痛だから、お喋りだけで済ませれるもの以外は断わることにしている。が、意のままにならんことも多い。ワシントン条約も相手にせん絶滅危惧種だからと諦めておるが、本音は誰かに伝承したい。しかし、食えん事を引き継ぐ馬鹿は早々おらん。

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